忙中閑あるかな? 黄紺の日々


トルコのこと、キプロスのこと、こんなことを主に、日々思うこと。ときどき、韓国のこと、 日本のことも混じるかも? 仕事に忙しくっても、頭のなかは、トルコのこと、キプロスのこと考えてる。 頭のなかは、いたって長閑。それが、、、、、、

黄紺、なのさ。




2005年 5月 4日(水)午前 7時50分

 なんか、TVを観ていると、GWだということで、行楽シーズンたけなわって感じで、お出かけの家族連れとかの映像が流れている。そんなのを観ていると、お出かけのないGWを送っている黄紺は、「なんで、こんな混雑してるときに行くんだよう」と突っ込みを入れつつ、あーやってお出かけの機会を得ている人を羨ましく思っている。このままでは、虚しいGWを過ごしそうだし、仕事に奉仕しするだけというのは、あまりにも馬鹿馬鹿しい。今度の日曜日も、次の日曜日も、振り替えなしの勤務だから、虚しさはつのるばかりだ。一方で、GW最中に、家にばかりいると、不健康極まりない生活を送ってしまうので、自分の健康を考えると、ウォーキングなんかやってみようかと思っているところだ。
 最近、この春、黄紺の職場に転勤されてきた方から、トルコ旅行の相談を受けることがある。転入早々、どこやらで、黄紺がトルコ関係であると聞きつけられてきたようなのである。丁度、この夏、トルコに行こうかと考えられていたところに、グッドタイミングだったようなのである。ただ、世界を、いろいろと歩いてこられているようで、単なるツアーではなく、15日間行きたい、そのなかにはボガズキョイを含められたらなぁとのお話。で、いざ、日本の主だった旅行社の催行しているツアーは、ご存知のとおり、8〜10日のお決まりのコースが殆どで、トルコ15日間という設定が、なかなかないところへ、たとえあったとしても、人数が集まらず、催行しえなかったということで中止の憂き目を見るらしい。そんなことは、旅行社は承知の上で、プランを作り、客を募り、そして、中止になるというコースを歩んでるみたいだ。そんなで、なかなか見つからないみたい。特殊なコースばかりを取り扱ってる旅行社も紹介はしているのだが、あまり、それらには関心を示されてないようなので、殆ど無理状態。そう言えば、黄紺は、この頃、トルコへ行くと、判で押したように、東部・東南部へと出かけていっているが、いわゆるツアー客に会うという経験は、1度しか思い出せない。忘れているものもあるかもしれないが、数は、とっても少ないはずだ。その1度は、アンタクヤのモザイク博物館でのこと。早朝、イスタンブルからアダナへ飛んで、アンタクヤへ寄り、その後、ガジアンテップへ向かうと言ってた超ハードな行程をこなしておられる最中だった。その後の行程を聞くと、ディヤルバクル、ワンというお決まりの話が返ってきた。逆に、私の同僚の話を聞くと、この人たちは、珍しい一団だったんだと、今さらながら思ってしまう。
 東の方に行きたいんだけど、、、そこまで言って、次ぎに出てくるのは、必ず治安の問題、クルド人の問題。もちろん、安全かどうかは、他人が判断することじゃない。安全の基準は、人それぞれだと思うから、まず、それを抑えてから、この間の経過を、お話しする。「イスタンブルの方が、危険かもしれませんよ」と言い放ってしまうと、聞く方からすると、やはりというか、ぎょっとされてしまう。脅かすつもりはないけど、ピンポイントで狙われると、イスタンブルは、そうと言わざるをえないから、そう言ってしまう。一方で、東部・東南部に対する予断を解いてもらおうという気があるのだけれど、インパクトは強うそうだった。「ツアーで見つからないんだったら、ご自分で、コースを組まれて、旅行社に発注されたら、いいんじゃないですかぁ」「それも、日本の旅行社に発注される方法と、トルコの旅行社に直接発注するという2つの方法があると思います」「場合によったら、向こうのガイドさんを1人抑えて、その方に、全部、リクエスト出して、手配してもらわれれば、いいんですよ」「その方法採られるんだったら、ご紹介しますよ」等々、、、もちろんガイドさん紹介というのは、アイシェ・ハヌムのお友だちガイドさんが、仕事が減ってるという話を聞いていたからのサービスだ。ただ、ここまで話が及んでくると、もう個人個人の生活観の問題だ。全く、そないな方法が、もうパラダイムから外れてしまってる方多数だからなのだ。だから、言うだけ言って、乗るか乗らないかは、もうご本人次第だと思って、話を切り上げることにしている。ただ、トルコには行っていただきたいので、黄紺のトルコ話は、延々と続いてはいくのです。




2005年 5月 3日(火)午前 8時25分

 黄紺のGWは、結構、働き、そして、結構、呑み回っている日が続いている。まあ、働きは、さておいて、呑み回るということは、この歳になると、なかなか翌日のことを考えると、きついものがあるが、まあ、そういった機会に恵まれている、幾つかの集団に所属しているというということかとも思っている。1回目は、30日(日)の夜、月末恒例のトルコ友だちによる食事会だ。今回も、大阪のトルコ料理屋さん「コナック」のお世話になった。今回は、おなじみK氏の知り合いさんたちも加わり、総勢10名を越えていただろう。アイシェ・ハヌムは、38度以上の高熱とかで、お休みだった。皆さん、一様に、次週からトルコに行くのに、大丈夫なんだろうかと、心配の声。「なんせ、ひ弱な方なんでねぇ、それが、大丈夫かと、、、」とまあ、、これは、黄紺ですが、異口同音の言葉が出ておりました。K氏は、またぞろ、「Biz Bize パーティー」の企画を考えてるとかで、「また、そのときは、たのんます」と、要するに、「黄紺のHPにも、お知らせ、載せてね」ということだ。連絡が入れば、目立つ表のページに載せるつもりだ。「ナザール」でするとかで、自然とナザールの話に。ドネルの上手な売り方をされてるとかで、そこから、周りの者が、K氏に、ドネルジへの転身を勧めだした。「もうかりまっせ」と、私のフランス体験の話などを持ち出し、売り方、メニューの絞り込み方、お味の好みなど講釈、それも、車での売り歩きまですれば、売り上げ延びるよと、話は、勝手に、どんどんエスカレート。でも、免許がないとうことで、あっさり、ご破算。とまあ、長閑な話を、酒の肴に、いつもながらの盛り上がり。
 第2弾は、高校時代の友人からメールが入り、帰洛するので会おうというもの。どうやら、盆と正月には、帰ってきているようだったが、私が、その時期は、トルコに行っていたり、また、どこやらに行っていたりで、会えなかったのだ。福井にいる友人から、そのときには、「黄紺のお部屋」にメルアドがあるから、そこに連絡入れておけば、連絡がつくかもという方法を教えられ、メールを入れてくれたのだった。近くにいる高校時代の友人にも、声を掛け、3人で呑んだ。当初、黄紺は、先日、Ayさんと行けなかったアゼリ系イラン人のお店に行こうかと思っていたのだが、会った途端、このメンバーで会ったら、ここだなと、東京から帰ってきた友人の言葉。そうそう、こういうときは、決まったように行っていた某所の「お好み焼き屋」があったのだ。もう、簡単に、そちらになびく。いい歳したおっさん、3人。この間の無沙汰を埋めるかのような話が弾みましたが、内1人が、2件目の店で、うつらうつらしだしたものだから、お互い歳に負けないように、早めのご帰還と相成りました。
 第3弾が、昨夜のこと。前日、少し、ゆとりを見て帰ったので、まだまだ大丈夫、そんな感じで、奈良まで仕事に行った帰りに、同僚たちと鶴橋に出て、これまた久しぶりの「アリラン食堂」。ここの従業員、顔ぶれが変わっても、日本語があやしい。どうも、どんどんと韓国からのニューカマーで補充されてるのかしらん? いい加減なことを書いてはいけないけど、、、そか、韓国人留学生のバイトという手もあるか、、、なるほどと、自分で書いて、自分で納得。リニューアルされてから、お味が変わった、しかも、良くない方に、そんな感じは、今回も、でも、1番、「韓国な食堂」の地位は不動のものかな? ま、そんなで、GWは、どんどん過ぎていくのであります。




2005年 4月30日(土)午前10時17分

 GW、前半の谷間の日だ。昨日は、丸1日出勤、明日も、丸1日出勤とまあ、、、谷間なのである。そんな谷間でありながら、もう、この時間には、職場から電話が入った。黄紺の働いている職場は、GW真っ只中ながら、、、こんなこと書いてる最中に、もう1本、今し方、もう1本の電話が入った。とまあ、真っ只中ながら落ち着かない谷間の日を送っている。と言いながら、これから、どんな過ごし方をしようとしても、具体的なイメージが湧かないのが、悲しいところだ。ただ、今晩、毎月月末恒例のトルコ友だちの食事会があるので、それまで、何にもしないで、たまには体を休めた方が、賢明かもしれない。
 毎年、この時期、韓国に行っていた。年度末から年度初めにかけての超多忙な日の疲れを癒し、且つ、自然が、ここまで変わっていたのかと、周囲の風景の変化を、ゆっくりと感じ入る好機であった。ホント、毎年、韓国の旅館で、爆睡をし、郊外に出かけ、陽の光を眩しく浴びるとともに、新緑の美しさを感じ、ときの移りを知っていた。それが、今年は、どうだ。ちょっと厳しいね。ま、そんなことが予想されたこともあり、3月初旬に、韓国に行き、韓国に対する飢えのようなものを満たしておいた。だが、季節が違う。やはり、季節の清々しさでは、GWのこの時期に敵うものではない。そもそも、この時期の素晴らしさを求めて、韓国へ、GWに行きだしたわけではない。日本の騒々しさを逃れようとの魂胆から始めた韓国行きだった。ところがだ、もう何年前だったろうか、大邱の南バスターミナルという、ちょっと寂しいバスターミナルから、雲門寺(ウンムンサ)行きのバスに乗り込み、ぼやーっと、郊外に出ていたときに窓外を見たとき、この新緑の輝き、清々しさを知ってしまったのだ。そして、雲門寺という尼寺の雰囲気が、こぢんまりとしながら、緑がとても生きるレイアウトだったのが、黄紺を痺れさせた。これから、韓国へ行く楽しみが増えた感じがした思いがした。それが、今年は、なしなのだ。
 こないだ、お葬式のあと、お骨にするために向かった東山、なんとなく見上げて、陽の光を感じた。するとどうだろう、新緑を通じての陽の光が、目に飛び込んでくる。暫しの緊張に包まれていた黄紺の中に、韓国の新緑が、忘れていた新緑の美しさが飛び込んできた。なんと、気持ちが安らぐ時間なのだろう。場所が場所、時間帯が時間帯ということもあり、かなり忘れなさそうな予感がする。この時期の緑には、そういった力が、確実にある、そんな気がしていたのです。
 さて、今晩は、「フェネルバフチェ vs トラブゾン・スポル」の一戦のある日だ。確実に、今季の行方を左右することとなろう。舞台は、カドゥキョイ、こういった日に、カドゥキョイにいたいものです。せめて、ラジオを聴きながらの声援でも送りたいと思うのだが、明日は、ほぼいつも通りの出勤では、厳しいものがあります。ましてや、呑んで帰ってくる日に。うまく、動かないものです、こういったことは。




2005年 4月25日(月)午前 3時22分

 昨日の朝、黄紺にとって大事な人が亡くなった。恐らく、ここまで1番の迷惑をかけてきた人の1人、いやその筆頭に上がるかもしれない人だ。半年の入院生活の結果だった。状態も安定していたので、1ヶ月足らず前に転院をして、これ以上良くはならないかもしれけれど、この状態でいてくればと思っていたところ、先週の月曜日の深夜に、かなり悪くなったと電話が入り、更に、翌火曜日、帰りの電車の中で、今晩が山かもしれないとの電話が入りと、急な展開に入ってしまった。大体、こういった話というものは、とっても体にきついときに入るものと相場は決まってるものと思う黄紺は、今回もそうだったかと思うと、こんなときじゃなかったら、もっと様子を見に行くことが、この間できたろうにと、まず、悔いが走った。この2週間、休みなしに出勤していた、疲労もピークを越し、更にその上のピークに登ろうかという時期だった。火曜日、電車の中で、その知らせを受け、そのまま病院に。途中簡単な食事を済ませた時間を加えると、職場から2時間の行程だ。ただ、1つ救いだったのは、まだ、意識が残っていた。声は出せないが、こちらの言うことは、完全に分かっていた。黄紺は、こういう風に呼び込まれて、病院に行くと、いつももう意識のない状態で待ち構えられていた。今回も、そうなのだろうと思い、だから、年度初めの多忙さで会いに行けてなかったことを悔いたのだった。でも、今回は違った。声かけに、確実に反応する。これは、思いもがけないことだった。正直、嬉しかった。間に合ったという嬉しさだ。と同時に、困惑が、黄紺に走った。こんなに意識のはっきりしている人が、今晩、危ないということは、急激に、死が訪れる? 意識レベルで? これは考えられないことだった、黄紺には。幸い、その日から、5日もった。水曜日の夜に、様子を見に行くと、残念ながら、もう意識は混濁し、聞こえているかもしれないが、こちらからの問いかけには反応は返ってこなかった。でも、これに、正直、ホッとした。これで、苦しまずに死ぬことができるだろうと思えたからだ。
 この分だと、GWあたりまでもつのではと、そんな予感をもってもいたが、実際は、そうではなかった。医者が、データに基づいて下した判断通りだった。いつかは来るだろうこと、もう6年半前から、ある意味では、考えておかねばならないことだったのだろう。この「6年半前」は、簡単に、黄紺の口からは出てくる数字だ。だって、息子と、初めてトルコ20日間いたときのできごとなものですから、忘れるなんてことは、ないことなのです。息子が、カルスで寝込んでいた、正に、それと同時進行で起こっていたこと、それを、そんなで知らずにいたこと、そんなことが思い出されます。黄紺に厳しく、そして助けてくれた人、覚悟をしていたお別れのときです。




2005年 4月23日(土)午前 8時28分

 先週の土日が、両方とも仕事でお出かけだったので、2週間ぶりのホンマものの休日だ。さすが、昨晩は、爆睡中の爆睡。この歳になっては、なかなか連続睡眠をすることができず、いくら眠くとも、細かく目が覚めることが多いが、昨晩は、6時間連続眠ることができた。これで、よく眠れた、とってもと言っているのだ。自分的に、満足している。ただ、目が覚めると、この2週間の疲労が、すべて腰に集まったかのようで、腰が重たくて重たくて、簡単に起きられるものではない。それに加えて、黄紺は、10数年前の手術の後遺症で、長い間寝ていると、腰が痺れてくるものだから、これだけ連続して寝ると、こちらの痺れも、すごいものがあるで、なかなか起きられたものではなかった。だけどもだ、睡眠をとれるということは、結局、体力回復につながるから、痺れなどは、じっと我慢の子だ。俯きになっていると徐々に痺れは収まってくる。それに伴って、これも手術の後遺症、首を上へ上げてられなくなってくる。もう、満身創痍だ。ま、その頃になると、少しは腰の方が収まっているものだから、えーいと起きあがるという具合なのだ。
 きついことが続くときは続くものだ。先週は、おばあちゃんの具合が、かなり悪くなり、病院通いも続けた週だった。幸い小康状態というやつに入っているので、昨夕は、歯医者に行く関係もあり、行くのは止めたが、人生、こんなものだと、できるぎりぎりのことができるときはしておこうと思うのだ。世間には、「しんどい」の一言で、何から何まで拒否をする人を、よく見かける。まあ、そういったことは、基準が、自分の中にあるものだから、とやかく言うつもりはないが、ときとして、自分が「しんどい」として放棄してしまうときほどまで、引っ張ってきているのだろうかと思うことがある。とまあ、しんどいときというのは、若干他傷的気分になるからいけない。それに気付くと、自分の疲れを、更に一層自覚することとなる。
 今日は、心配なことも頭に入れながら、自分的楽しみ&持ち帰り仕事をしていようと思う。GWも出勤で、そこそこ潰れそうなので、休めるときには、全面休みにしておかねばならないのだろうが、体は、それで満足だろうが、ハートの渇望が増すばかりなので、何かを求めて、外に出てしまう。今日も、観能の日に当てようかと考えている。幽玄の眠りに入ることが、黄紺風癒しだと、今のところ思っているので、それを採用しようかと思っている。そして、病院に、様子見に行ってみようかと考えているところだ。




2005年 4月17日(日)午前 2時33分

飛火野の桜  この週末は、「フェネルバフチェ vs ベシクタシュ」戦のある週末だが、この土曜の夜は、珍しくも夜間試合がない日である。土曜日に予定されていた試合は、遅くとも薄暮試合で、夜になってからの試合はないのだ。だから、こんな時間に起きていながら、サッカーを聴かず、TRT−3の定番、クラシック音楽をかけっぱなしにしながら、これを書いています。こんなことをしていると、週末に入った気分が、なかなかしないのだけども、仕方があるまい。
 その気分は、土日出勤ということで、倍加してしまっている。要するに、2週間働き詰めてしまうというわけの分からないことになってしまっている。週何時間労働なんて、どうやらこの業界には通用しないみたいである。そんなことで、もう昨日になってしまう土曜日、黄紺は、奈良に行って来た。とても、いい天気で、爽やかな1日だった。興福寺から飛火野、その飛火野の草原に、葉桜混じりの桜の木から舞い落ちる桜吹雪に、ちょっと感動。もう20年も前になるだろうか? この辺りを訪れたのは。5月に行われる興福寺の薪能の方ではなく、12月に行われる奉納能を観に行ったのは。それ以来だから、道筋の検討はついてはいるのだが、詳細な道筋は、黄紺的には不明。ただ、同行者の後に付いていくのが精一杯だった。20年前の観能体験は、もう悲惨だったなぁと、そんなこと思い出してました。真冬の屋外での観能って、想像してみてください。大鼓方なんて、よく一曲打ち続けられたなぁと、今思い出してみても残酷物語だし、観ている方は冷えるわ冷えるわで、もう大変でした。無料で観れたにもかかわらず、2度と行こうと思わなかったし、実際、行っていない。それが、どこだったのだろうと、そんなことを考えながら、春日大社への参道を歩いていましたが、結局、分からず終い。参道沿いじゃなかったのかなぁ、そうだと思っていた黄紺には、その強烈体験の場所を特定できず、ちょっとがっくり。今度、いつ、その辺を通るか分からないので、このまま、ずっとお蔵入りの記憶になるかもしれませぬ。
 若草山の麓へと、春日大社から回ってみました。同行者が、道に明るく、小道をうまく抜けると、春日大社から、あっという間に麓に出ていました。壁のように見える若草山の光景。黄紺は、東大寺の方に流れていきましたが、そこでも、山焼きを観に行った日を思い出していました。8年ほどになるのでしょうか? 山焼き見物。トルコ語教室で仲良くなった同級生たちとのお出かけでした。TVでは、散々見てきた光景でしたが、生の迫力は、やはり違うもの。そんな思い出は、そのあと、東向き商店街の中の飲み屋さんで行ったその日の打ち上げの記憶へと繋がる。翌日が仕事だというのに、10時過ぎまで呑んでました。そのとき呑んだ奈良の酒、確か「春鹿」でしたっけ、美味くてねぇ、しばらくその同級生の間で話題になりました。そんなこと考えながら、爽やかな奈良歩き。歩くのが仕事みたいなものですから、お疲れもいいところ。東大寺経由で、再び市中に向かうと、さすが土曜日でした。修学旅行生から外国人観光客まで、大変な人出。その人の多さに呑まれたかのように、疲労が倍加。もう、帰りの電車の中では、大爆睡の黄紺なのでありました。




2005年 4月14日(木)午前 3時48分

 今、関空から、ドーハ経由でイスタンブル入りすることができるんですね。カタール航空が、関空に就航しているということを、黄紺は、実は、アイシェ・ハヌムからいただいたメールで初めて知りました。「今回のトルコ旅行は、カタール航空で行くつもりをしています」という内容のメールをいただき、「えーっ!」と絶叫気味の黄紺。結局、アイシェ・ハヌムは、日程の都合で、カタール航空は断念して、他の航空会社利用とのことは、後日、知りましたが、黄紺的には、カタール航空が、頭から離れない。考えてみれば、今まで、トルコ入りするのに、ダイレクト便は別にして、いろんな航空会社を利用してきました。KLMオランダ航空、エア・フランス、アエロフロート、アリタリア航空、タイ航空、キャセイ・パシフィック、マレーシア航空、シンガポール航空、アシアナ航空、エジプト航空、そんなものかな? おかげで、正に行きがけの駄賃、帰りがけの駄賃よろしく、トルコのついでに、いろんな国を、上辺を撫でるかのように訪れることができました。なかには、こないだのタイのように、後日、改めて、その国にだけの旅程を組んだところも出てきています。46度のカイロ体験、飛行機墜落事故遭遇体験(香港)など、強烈な経験もさせてもらってます。そんななかで、カタールとは考えてもしなかったところであった。
 中東については、シンガポール航空やマレーシア航空を利用すれば、ドバイ経由は定番だ、現在。現在と断ったのは、かつて、シンガポール航空は、ドバイというUAEの都市ではなく、ダーランというサウジの都市経由だった時期があった。ま、そんなで、ちょっとくらいは通過してるのだが、いずれの場合も、そういった都市に降り立つのは、行きは深夜。帰りは夕刻で、もう、帰ることしか考えてないということでもあり、且つ、経由地ということで、そもそもストップオーバーって考えたことがなかったのだけれど、カタール航空を利用すると、手頃な時間に降り立ち、且つ、ここで飛行機の乗り換えがあるということで、ちょっとドーハの町見物、そんな気持ちが、一旦出てしまった。アイシェ・ハヌムが、日程の都合で辞めたのを逆利用して、言い換えると、乗り継ぎの便が悪いのを利用して、ストップオーバーを考えたのだ。でもね、ヴィザ取得が邪魔くさいみたい、その邪魔臭さに応えるほど行くところがない、そんなことが分かってきた。ネットで見ていると、「世界一観光地のない国」などというすごいコピーまで見てしまった。ま、「ドーハの悲劇」の舞台を見ることは、「日本人の好きな観光地」だそうだが、ただのスタジアムじゃんとうことで、自分的にはボツ。そんなこと考えると、去年、ドイツもついでに、夏に行ったので、トルコが薄くなった分、トルコに集中しようかと、そんなこと考えています。いや、そんなこと言いながら、懸案のブルガリア入りしてるかもしれませんが、今のところ、黄紺の夏は、単純にトルコ・イン、トルコ・アウトなのであります。




2005年 4月 9日(土)午前 4時59分

 日本のTVも、トルコのラジオも、ニュースで、カイロの「ハーンハリー」で爆弾テロがあった伝えています。3人ほど犠牲になっています。アメリカ人、フランス人と言ってたかな? そこは、オールド・カイロの中心部。ファーティマ朝、アイユーブ朝、マムルーク朝時代という中世カイロの面影を伝えるそのど真ん中です。観光客が押し寄せるところでのテロに、少なからずショックなのです。エジプトって、ピラミッド、スフィンクスの時代にばかり、目が行っちゃうけど、同じ古代でも、コプト教会という東方教会、そして中世が、抜け落ちてしまうんだけど、これらも、とっても貴重な史跡なんですね。ガイドブック片手に歩いてると、アイユーブ朝時代創建のガーミア(モスク)だなんてのが、ごろごろ。こちらは、ファーティマ朝時代の創建とくると、もう、これは、感激以外、言葉が出てこない。私らにとっては、全く本の上でのもので、なぜか、現物に出会えるなんてこと予想だにしてないものが、ごろごろ。オールド・カイロって、行く前に、Ayさんから、お薦めよと言われてたんだけど、黄紺も、これは、声を大にして言いたいところです。でも、こんな事件があると、ダメですね。かつて、カイロの国立博物館がテロに遭い、多くのドイツ人観光客がなくなったことがありました。丁度、観光客がターゲットになるということが、エジプトで起こっていたところでしたので、危ないなと思っていた矢先の事件でした。でも、あすこは警備のしようがあるし、そうだろうと思い、その事件後に、黄紺も行っちゃいましたが、この「ハーンハリー」一帯は、普通の街中だから、無理。エジプトには痛手です、これは。
 こないだ、バンコクの雑踏のなか歩いてて、カイロを思い出してたところです、偶然。こんなけ新鮮に、雑踏を歩けるの、カイロ以来だなぁって。ロッブリーの巨大なロータリーの傍らに腰掛けて、そのロータリーを眺めながらも、そや、こんなこと、どこかでしてたはず、、、そうそう、カイロのあすこでやなんて感じで、また、カイロを思い出してました。「だけど、同じ暑いといっても、カイロの方が、いいよ」、ま、炎天下ではなく、ちょっと日陰に入ってると、もうこの感想。気温は、カイロの方が高いんだけど、湿気が違うと、こんな感想になってしまいます。でもね、カイロも、ナイル川沿いは、ダメです。殊に、風のない日。湿気、多いです。そうそう、チャオプラヤ川の水上バスに乗りながらも、ナイルの夜景、思い出してました。「夜の風景、けばかったなぁ」「あーいうけばさ、ここには、ないよな」って。夜でもないのに、しかも、全然、違う光景なのに、なぜか、バンコクにいながらカイロを思い出してた黄紺なのです。両者の共通項は、「雑踏」、それだけなのに。単純なお話。そんなこと考えてると、また、異質の「雑踏」見たいよななんて考えてしまってます。例えば、メキシコ・シティなんて、どうでしょうか? 「スモッグに霞んだ雑踏」の「不健康さ」って、魅力じゃ、ないですか。そんなこと書きながら、イスタンブルの「ムスル・チャルシュ(エジプト市場)」裏の「雑踏」思い出してます。あすこも、なかなかだよなぁって。スレイマニエ・ジャーミーへ続く道は、イスタンブルの旧市街中の旧市街って感じですものね。そうそう、トルコには、「ムスル(エジプト)」「ジャポン(日本)」の名の付いた市場、商店街を散見します。なんでもない普通の商店街に、そんな名前が付いています。現代の日本のように、中世エジプトは、物が豊かにあったからなのでしょうね。おもしろいですね、こんなネーミング。「ジャポン・パサージュ」なんて、ね。




2005年 4月 8日(金)午前 5時18分

 先週の今頃、タイを歩いていた。何年かぶりに、年度末から年度初めの谷間の時期に、休暇を取ることができそうだと分かったのが、3月初め。しばらく迷う期間があって、実際に、その気になったのは、3週間も前じゃなかったような気がする。当初は、週末に引っ掛かれば、イスタンブルに、サッカーだけ観に行こうかなんてことを考えていたのだが、週明け早々に、仕事が入っていたので、断念。替わりに、韓国以外のアジアで検討に入り、最後に残ったのがというか、簡単に2つをチョイスしたんだけど、台湾とタイだったのです。台湾は、空港に飛行機が降り立った以外、全く入国はしたことがなかった。一方、タイは、以前にも書いたが、タイ航空がイスタンブル便を持っていた時代、乗り継ぎの僅かの間に入国しただけだった。で、両者の選択の決定打は、航空券の価格。黄紺が調べた段階では、両者、あまり変わらなかったのだ。となると、遠い方へ行った方が、得した気分になれるなと、全く軽薄な考え方で、タイに決定した次第だ。そのあとに、「ブエノスアイレス」という映画を、ビデオで観ると、最後に、ちょこっとだけ、台北の屋台街の映像が入った。これで、しまったぁ、ここだったかもと思っても、後の祭り。でも、実際、バンコク辺りを歩いていると、それに匹敵どころか、それをも上回る雑踏に出会えて、大満足で、もうそんなことに微塵も、未練は持っていなかったのであります。
 しかし、それにしても暑かったです。行く前に、職場の同僚で、旦那さんが、単身赴任で、バンコク勤務という方がおられたので、多少なりとも話を聞いていました。「タイは、4月が、1番暑いって、言いますよ」と。黄紺は、7月や8月の、クアラルンプル、バンコク、シンガポールを知っているんで、これが最高やと高をくくっていたところへ、このお言葉は、かなりインパクトがあった。ガイドブックにも、同じことが書いてある。覚悟の上とは言え、ギヴアップ状態。1日で、首筋と鼻の頭がひりひり。身体の水分、雑巾を絞るように出るわで、もう、へろへろでした。でも、おもしろかった、です。なんか、アジアの理念型のようなものを見た気がしました。こういった気候なんかに、身体が、簡単にパンクしたのも、大事に至らなかったので、気楽なことを書くようですが、振り返ると楽しい思い出。チャイナタウンで購入したお薬は、もう離せません。夏、トルコに行くときには、持っていきます。どうしても、年齢から来る衰えを自覚している黄紺は、元々弱い部分をカバーしてくれるものですから、このお薬、大事に持っておくことにします。
 そんなこんなで、新年度が始まっています。慌ただしいなか、体調を整えつつ、頑張らねばなりません、去年は、転勤ということで感慨深いものがありました。ときあたかも、今を盛りと桜が咲き乱れていました。それが、今年は、1週間ずれています。丁度、春爛漫の演出のなか、明日、新たなスタートが切られます。タイで鍛錬してきた体力にも、はや限界が近づいてきています。ま、それも、この季節特有のものかなです。ちょっと気合いを、入れ直しましょう。




2005年 4月 3日(日)午後10時 3分

タイからBBSに書き込んだものを、こちらにまとめて掲載しておきます。

アユタヤから 1  投稿者: s_lacivert  投稿日: 3月29日(火)22時05分35秒

 「FUTBOL HABERLERI」をお休みして、タイにやってきています。空港から、バンコク市内には入らず、直接にアユタヤ入りしました。空港前の駅から直で50分。あっけなくアユタヤ入りです。このバンコク空港から、ちょっとだけ外に出て、今日乗った駅の周辺だけぶらついていたら、スコールに遭い、簡単に空港内に引き上げたのが、まだ、タイ航空が、イスタンブル線を持っていた96年のこと。あれから、今年で10年目なのです。J子を訪ねてイズミルまで行ってから、それだけの時間が経つのです。そう言えば、この96年の話題を、つい最近聞いたなと思ったら、そうそうAyさんとM子姫の再会も、それ以来という話だったですね。バンコク空港の向かいの駅をぶらついていたとき、「かっぱえびせん」のタイ・バージョンを発見して、それを、J子への土産としたこと思い出しました。ま、その程度のタイ経験しかもっていませんでしたから、もう、事実上の初体験と言って、いいかと思います。でも、空港向かいの駅前、随分と変っていました。道幅が倍になってましたし、その分、田舎っけがなくなって、残念な思いでした。ところで、アユタヤですが、まだ、肝心の遺跡には行かず、街中をぶらついただけですが、来る前に聞いていたとおり、かなり巨大な遺跡群と見ました。町中にも、ぽつりぽつりと遺跡が残っていますので、それだけ見ても、規模の大きさが分かってきました。町は、ちょっとした地方都市の雰囲気。もっと激しい客引きがあるのかと思っていたのですが、今のところ、遭遇はしておりません。ま、そういうところへ行ってないだけかとも思いますが。
 ただ、とにかく暑いです。96年のときは、7月の末だったですが、こんなにも暑くはなかったような記憶です。タイに詳しい方に、事前に聞いていたなかでは、「4月あたりからが、1番暑いいうから、大変ですよ」と脅かされていたのすでが、とんでもない、そのままです。飛行機降りたとき、36度と言ってましたし、湿気がすごいですから、かなりへばっています、既に。明日、大丈夫でしょうか? 巨大遺跡歩き回って。もう、何はともあれ、エアコンのあるホテルに投宿です。アユタヤのゲストハウスが集中するところは、外国人が多数泊まっています。その一角に、私も投宿中です。部屋が、お安くて、とてもきれいですよ。そんなこんなで、タイの第1夜は過ぎていきます。

アユタヤから 2  投稿者: s_lacivert  投稿日: 3月30日(水)22時18分16秒

 アユタヤの蒸し暑さは、半端じゃありません。今日は、昨日と比べて、少しは風があったので、過ごし易かったはずなんですが、異様な汗の出ようで、もう、お疲れも、いいところです。単位時間当たりの発汗量では、おそらく生涯ベスト5に入る記念すべき日です。それほど、汗をかきました。それだけ、体が熱せられているのでしょうね。一通り、アユタヤの遺跡からホテルに戻って、クールダウンするのに、2時間ほどかかってしまいました。ま、一つには、年齢のせいから来る体力の衰えは、どうすることもできず、欲張らないことを第一に動いたのですが、想像以上に、また、著しい減退です。
 ところで、アユタヤは、世界遺産に名を連ねるに値する見事な遺跡です。やはり石の遺跡は、ここのように破壊を受けたとはいえ、持ちのいいものです。破壊・略奪の前は、これらが、黄金に輝いていたかと思うと、改めて、スケールの大きさ、ものの懸けかたのすごさに驚いてしまいます。ただ、遺跡が広範囲に分散していることはアユタヤ朝の権力の大きさを知ることになるのですが、それを見て歩く者には、かなり大儀な仕事になりました。これだけの著名な史跡ですから、整備も行き届いており、とても、美しい公園を歩くような感じでした。お昼頃には、バンコクからのワンデイ・トリップなのでしょう。日本人や中国人の団体さん多数と出会いました。あのようなバスでの移動、それが、今日の日のような場合には、1番です。ほんと、暑かったぁ。
 ところで、苦手だったはずのタイ料理に、とっても満足しています。スープ系が、お気に入りベスト・ワンです。今朝の春雨スープ、今宵のワンタン・スープ、美味かったっす。塩、ナンプラー、トウガラシを使って、お好みの味をつけます。ついつい、ラーメンを食べる時の癖で、トウガラシを、多く入れすぎて、あとで後悔しています。苦手克服、これが、最大の成果かもしれません。いた、最大の苦手は、この蒸し暑さ、ホンマものの熱帯の暑さです。

Lop buri kara  投稿者: s_lacivert  投稿日: 3月31日(木)21時52分46秒

 Ayutaya kara hokuhokusei e 1jikan amari no machi Lop Buri e kite imasu. Tetsudou no eki mae ni hurui jiin no ookina iseki ga nokotte itari to kyuu-shigai wa midokoro no ooi tokoro desu. Machi no mannaka ni oukyuu ato ga nokori 18-seiki 19-seiki gaikoku no shisetsu mo otozureta tokoro da sou desu. Ika ni Europe to kouryuu ga atta ka wa sono oukyuu ato no teien desu. Konoyouna nettai no machi de seiou-huu no teien yousiki o toriireta mono to souguu suru to wa omotte mo imasen deshita. Shin-shigai mo rippana tokorode saisho wa chotto shita chihou toshi gurai ni kangaete ita no to zuibun to image ga kawari mashita.
 Mainichi onaji koto o kaite imasu ga kyou mo atsui desu. Kubi-suji to hana no atama hirihiri no ue ni ase ga bota bota desu. Tonikaku shikkari to suibun hokyuu o shite okanai to ikenai node mizu sore ni Nihon de wa zettai ni nomanai fanta ya cola o nomi yoru wa kicchiri to beer de suibun o oginatte imasu.
 Ima Lop Buri eki no sugu mae no Net-Kafe ni imasu ga mae no michi ni wa ippai yatai ga narande imasu. Kono Net-Kafe ni hairu mae ni kicchiri to Sopa to iu soup-kei no shokuji o sono yatai de sumasete kimashita. Koko kara kaeri ni mo mou 1do yatai o nozoite iku koto ni shimasu. Sosite 7-11 ni yotte beer katte kaeri masu.
 Tailand no hito no outai wa soft desu ne. [Hohoemi-no-kuni]to wa umaku itta mono da to omoi masu. Bukka ga yasui to iu koto mo aru deshou ga Oubei-jin ni totemo ninki no kuni to iwareru wake ga kono 3nichi to iu mijikai aida de mo wakatta youna ki ga shimasu. Nanka hamatte shimai sou desu. Sore ni wa wakaranai moji kouzui ni nantoka shinai to na nante mou saki no koto made kangaete shimatte imasu. Tairyoku no ochiteru mono ga kangaeru koto de wa nai kamo shiremasen ga.

 (以下は、日本語変換したものです)
 アユタヤから北北西へ1時間余りの町ロッブリーへ来ています。鉄道の駅前に古い寺院の大きな遺跡が残っていたりと、旧市街は見所の多いところです。町の真ん中に、王宮跡が残り、18世紀、19世紀、外国の使節も訪れたところだそうです。いかにヨーロッパと交流があったかは、その王宮跡の庭園です。このうような熱帯の町で西欧風の庭園様式を取り入れたものと遭遇するとは思ってもいませんでした。新市街も立派なところで、最初はちょっとした地方都市ぐらいに考えていたのと、随分とイメージが変わりました。
 毎日、同じことを書いていますが、今日も暑いです。首筋と鼻の頭、ひりひりの上に、汗がぼたぼたです。とにかくしっかりと水分補給をしておかないといけないので、水、それに、日本では、絶対に飲まないファンタやコーラを飲み、夜は、きっちりとビールで、水分を補っています。
 今、ロッブリーの駅のすぐ前のネット・カフェにいますが、前の道には、いっぱい屋台が並んでいます。このネット・カフェに入る前に、きっちりとソパというスープ系の食事を、その屋台で済ませてきました。ここから帰りにも、もう1度、屋台を覗いて行くことにします。そして、セヴン・イレヴンに寄って、ビール、買って帰ります。
 タイの人の応対は、ソフトですね。「微笑みの国」とは、うまく言ったものだと思います。物価が安いということもあるでしょうが、欧米人にとても人気の国と言われるわけが、この3日という短い間でも分かったような気がします。なんか、はまってしまいそうです。それには、分からない文字洪水に、はんとかしないとな、なんて、もう先のことまで考えてしまっています。体力が落ちてる者が考えることではないかもしれませんが。

バンコクから 1  投稿者: s_lacivert  投稿日: 4月 1日(金)23時10分44秒

 ロッブリーからバンコクへ移動しています。ところが、この暑さに負けてしまったのか、去年の夏、チョルムで起こったとよく似た体調不良に陥っています。どうも、夏の時期や、それに匹敵する季節の旅行は慎む年齢に入ってきているのだと思っています。
 で、バンコクですが、チャイナタウンの端っこのほうに投宿しているのですが、ここのチャイナタウンすごいですね。まるで、香港の街角を歩いているような感じがします。町の臭いも、思い出すものがあります。人口比率的には、マレーシヤや、ましてやシンガポールに比べて華人の比率の少ないタイの方が、らしいチャイナタウンが残っている、これは、各々の国の都市政策に起因するのでしょうね。バンコクに入る楽しみとしていましたのは、これよりか、最近、東南アジアの流行の交通事情解消の手段として導入がされている新交通システムを見ることでした。地下鉄も含め、バンコクの都市の姿は変わる前を見ずして、変わったあとをだけを見て思うのですが、未来都市的姿と旧来の姿が渾然と一体となってる姿って、その都市が、1番元気なときじゃないかしらんということです。だから、今が、旬なのか、これから旬になろうとしているのか、日本語の看板が氾濫する通りの「古臭いネーミング」からして、あの頃、元気だったときだったのかなと思ってしまいました。寿司屋の名前は「築地」、スナックの名前は「愛」「恵」、クラブの名前は「瀬里奈」に「キューピット」、これって、笑ってる場合じゃないなと邪推をしてしまいました。
 ↓試合結果、ありがとうございます。バンコクで、「韓国 vs ウズベキスタン」戦を、TV観戦の機会に恵まれました。「2:0」で、韓国の勝ちでした。

バンコクから 2  投稿者: s_lacivert  投稿日: 4月 2日(土)19時51分28秒

 突然の体調不良も、投宿しているところがチャイナタウンの一角ですので、漢方薬屋さんがいっぱいなので、簡単にお薬をゲット。また、それが、「中国5千年の歴史」を感じさせる効き目。もうすっかりではないのですが、昨日の憂うつな気分は、随分と消え失せてくれました。おかげで、ゆったり気分で、酷暑のバンコクを歩いてきました。昨日、行けなかった王宮と国立博物館で、ほぼ時間はおしまいというか、体力の限界。最後の最後にお目当てのBTSに、実際に乗ってみました。
 ところで、昨晩は、TVで、ずっと、懐かしい「全日本プロレス」の古い映像を見ていました。解説は、「馬場先生」と出ていました。そう、漢字の字幕スーパーが付いているということは、そして、その字体を見ると、中国ではなくぐらいは分かります。旧字体が頻繁に現れていたわけではありません。一体、どこが制作しているのでしょうかね? ジャンボ鶴田がラッシャー木村と組んでたり、三沢と川田の武道館決戦などをやっていました。ちょっとはまってしまい、タイのテレビ局ウォッチングを、すっかり忘れてしまってました。
 今日も、ちょっとだけ、気温のこと書いておきます。昨日は、気温、少しだけ低かったみたいです。バンコクだからというわけではないみたいです。ただ、木陰が多いのは助かります。
 今まで、タイ料理が口に合わないことを、最大の理由に、これだけの期間すら、タイには入っていませんでしたが、この考え方が、間違っていたどころか、全く、その逆だと思っています、この僅かの滞在期間に、180度変わりました。めっちゃいけます。いろいろな煮込みを、ライスなり、ライス・ヌードルにかけたり、スープにして食べたりと、おいしいかぎりです。これだと、もっと北や北東部、食事の心配どころか、それを楽しみにしていけるかも、そんなことまで考えれるようになりました。自分的には、大収穫です。帰国後は、ちょっとタイ料理屋さん巡りをしてみようかな?
 ということで、まもなく、チャイナタウン出発のお時間です。ようやく、この暑さから解放されます。




2005年 3月26日(土)午後 7時19分

 今日は、1年の間で、何度あるか分からない完全どフリーの1日だった。いろんな計画も持ったのだが、年度末の慌ただしさに、結構、疲れてるようで、気乗りが悪かった点があったのと、ちょっとそそられた計画がぽしゃったのとで、どフリーの1日を過ごしたというわけである。そそられた計画というのは、Ayさんが、こちらに帰ってきており、先日も、大阪のシリア料理店で、ご一緒したのだが、その際、京都に、元イラン在住のアゼリのお店があることを伝えたところ、話があっという間に決まったのだが、残念ながら、他の用事が入りぽしゃったという次第である。なお、このお店、現在は、「カスピ海料理店」を名乗っている。
 ま、そんなで、なんにもしてないな〜、今日は。実は、どフリー対策は立ててあったのです。例えば、韓国映画「猟奇的な彼女」を観ようと考え、昨日、仕事帰りに、レンタル・ビデオを借りてきてあるが、まだ、観ていない。先々週に行った伊勢志摩旅行の際撮った写真を、一緒に行った方々に送ろうとしていて、まだ、デジカメからすら取りだしていない。来週の後半に行くタイ旅行の資料収集をしようとして、これは、ちょっとしたな、でも、バンコク市内の交通網を調べている内に、とんでもないすごすぎるサイトに出逢い、完全、頭の中に叩き込めるものではないことが分かり、ギブアップしてから、結局、タイ情報を集めていない。一体どうするのでしょうね? そうそう、1番しなければと思っていたのが、この週末を使っての、そのタイ旅行の荷造り。これなど、する気はあっても、腰を上げようという気力が起こらない。じゃ、一体、何をしていたのかというと、午前中、歯医者に行ったついでに、弟の家に、こないだの韓国土産を持って行ったこと、今頃にであるが、まあ、持っていった。それから、京大病院まで、お見舞いにちょこっと行って、ついでにお昼ご飯を、病院近くの喫茶店で済ませ、帰りに、家の近くで買い物をして、帰ってきて、どフリーのときの定番ワインを、コップ1杯を飲み干すと、もう、ぐっすりと熟睡。いつも以上の、大熟睡。ほんと寝込んでしまってました。
 考えてみれば、この週明けの月曜日で、今年度の仕事に区切りがつきます。昨年度までは、新年度との区切りがつかなかったけれど、新しい職場では、仕事が少ない関係上、区切りというものが、久しぶりにつきました。その期間を活用して、いや、ほんの少しの春休み復活記念で、タイに行くことにしました。その昔、イスタンブル入りをするのに、タイ航空が利用できた時期、乗り継ぎの時間を活用して、入国経験があります。空港の向かいの町を歩いただけ、それも、スコールに見舞われ、多くの時間を無駄にしてしまった、そんな記憶のあるバンコク体験。その思い出を、ほんの少しだけ追加する旅を考えています。春の旅と言えば、かつて、トルコ2週間なんてことをしたことがありました。フェティエなんて行ったの、あのときだった。アイシェ・ハヌムが、その後、何度か行って、いろいろと情報が入ってくるたびに再訪を考えるのだが、未だ実現していない。知らない間に、サマータイムに移行して、びっくりしたのもフェティエだった。今回も、週末に休暇を取れるようだったら、週末、イスタンブルでサッカー観戦をしにだけ、行こうかなとも思ったほどだったんだけど、それは、無理でした。その旅行のための準備に必要な体力温存の日として、今日の、なーんもしないどフリーの1日と考えることにしておきましょう。







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