忙中閑あるかな? 黄紺の日々


トルコのこと、キプロスのこと、こんなことを主に、日々思うこと。ときどき、韓国のこと、 日本のことも混じるかも? 仕事に忙しくっても、頭のなかは、トルコのこと、キプロスのこと考えてる。 頭のなかは、いたって長閑。それが、、、、、、

黄紺、なのさ。





2001年7月 29日(日)午前 9時13分

 ようやく今夏のトルコ旅行の日程が確定した。出発日も、8月2ないしは3日と、このあたりぐらいまでは絞り込んでいたのだが、飛行機が決まらないと、これまで決まらない。当然帰国日も決まらない。まあ、最初は、行けることすら諦めねばならないと思っていたくらいだから、このくらいは我慢しなければならないだろう。しかし、マレーシア航空が取れるとは、ほとんど考えていなかった。だから、黄紺の頭のなかでは、8月3日出発のトルコ航空で固まっていた。南東部での場所の割り振りまで、おぼろげながらにもできていた。だから、第1希望が取れたにもかかわらず、結構不安定な気分である。昨日になって、ようやく歩き方の「マレーシア」編を買った。案の定、この「マレーシア」編は見にくいし、空港から市内への移動は、今回は書いてくれてはいるが、この移動方法そのものが難敵だから、少々の書き方では分かりづらい。ま、これも前回、クアラルンプールの空港ができたばかりのときで、空港からの移動に、随分と戸惑った経験があるから大丈夫だろうけれど、しかし、関空もそうだし、ソウルの新空港もそうだけど、なんで、こんなに遠いところに空港作るのか、こんなけ不便なところに空港作るのなら、どうしてもっとわかりやすいアクセスの方法を確保してから、開港しないのかと思ってしまう代表的な空港の一つである。
 でも、この「おまけ」が嬉しいんだ。トルコ航空でトルコへ行くと、関空でトルコの雰囲気少し味わえるが、これはイスタンブールの空港で、はや日本であるということをも意味する。これが、1番嫌い。トルコを離れても、まだそうは簡単に日本へは帰らないぞ、これがたまんないのである。そういう意味では、マレーシア航空、最高。だって、帰りは、朝、クアラルンプールに着いて、日本向け飛行機が出るのが、その日の夜中だから、もう丸1日マレーシアで遊べる。行きも1日遊べるから、計2日、マレーシアで遊べるというわけである。これって、最高の「おまけ」。でも、帰りは疲れるよ。だって、クアラルンプール朝7時と言えば、トルコは、まだ夜中の2時だもの。それから、その日1日眠れない。じっと我慢の1日でもあるのです。
 そんなことを考えて、昨日の「コナック」での教室兼食事会に参加。K氏とトルコ行きの話をしていて、「あっ、そうそう、Kさん、出発はいつでしたっけ?」と聞いて、あんぐり。「あっ!」、である。ここで思い出したのだ、同じ飛行機になったかもしれなかったということを。こんなことってあるんだよねぇ。完全、ニアミス。「空港まで、お姉さんが迎えに来てくれるから、一緒に、乗せてあげたのに。あの飛行機着くの、結構遅いでしょ」、そのとおり。こんなオプションも付くんだった、はず。黄紺の不幸が、ここに始まったって、ことでないことだけを、願う。でも、昨日の食事会、途中でリタイアだけら、よくないこと続いている。あーあ、、、。




2001年7月 25日(水)午前 2時06分

 相変わらず暑い。そりゃ、史上最高の暑い7月に、相変わらずクーラーなしの職場で働いているのだから、暑くないわけがない。そういう暑さのなかで、今日は、おもしろいことを発見した。暑いがため、どうしても動きが緩慢になり、仕事も集中力を欠きながら、だらだらとやってしまうが、今日やってた仕事というのが、まあ、パズルを解いているような仕事と思ってもらえればよい。「うん」と気合いを入れて、集中力を高めないと、前へ進まない仕事なのである。パズルを一つ一つ解いていかないと、いくら時間をかけても仕事が終わらないから、効率的に仕事をするためには、集中せざるを得ないのである。すると、どうだ。汗が、ぽたぽたと、うつむき加減の黄紺の額から、顎から、滴り落ちるではないか。いくらこの暑さだとはいえ、いくら最近の黄紺が太り気味だとはいえ、何も体を動かさないで、汗が滴り落ちるところまではいかない。要するに、集中力を高めているだけで、人間の身体って、より活発に動いてるんだと、変なところで感心してしまった。でも、その仕事が終わると、また緩慢な黄紺に戻る。すると、やけに体が重い。ソファーにへたり込む。そのソファー自体が、異様に熱を持っている。何か運動をした後の疲れみたい。しこたま汗を滴らせた身体に、熱を持ったソファーは、たまらない辛さだが、身体を預ける。ぐったりしていると、そんなときに限って、近くの電話が鳴るし、またそういうときに限って、電話の回りに、人がいない。こんな日々の繰り返しである。トルコに行く前に片づけておこうなどと思ってたことがあるのだが、こんな状態だから、全然進まない。たちまち、明日の会議の準備すら、手が進まない。なんて暑さ、こんな職場、いまどきないよ。
 クーラーつながりで、話をトルコに飛ばそう。黄紺が、トルコへ行きだした頃、と言っても、例の「不届き者」I氏と行った94年の夏、これが、自分的には、夏のトルコ初体験である。また、この夏こそが、異様な暑さの、それこそ異様な暑さのトルコであった。我々より、1ヶ月ちょい後の9月に行ったアイシェ・ハヌムとT森も、異口同音この暑さのことを言い出すと止まらない。それ程の暑さだったが、カドゥキョイの星付きのホテルでは、クーラーは付いてなかった。だから、どこへ行っても、クーラーなんてないものだと思っていたし、クーラー付きって、とっても贅沢なホテルだと思っていた。3年前、息子と行ったときも、カルスやエルズルムのようなクーラー要らずの町はともかくも、クーラー付きのホテルに泊まるときは、息子に、「今日は、いいホテル止まらしてやるからな」と言いながら、新しく着いた町で言ってたような記憶がある。僅か3年前である。まだ、クーラーを意味する「クリマ」という単語すら知ってたか、怪しいものである。それが、南東部へ足繁く行き出すようになてからというもの、クーラーなしではいられません。クーラーの付いてないホテルって考えられません。だって、昼間、40度の世界から避難する場所として、クーラーのある部屋、絶対必要だもの。身体を冷やす時間、必要だもの。そう言えば、ガジアンテップに初めて行ったとき泊まったホテル(アイシェ・ハヌムが、BBSに“例のホテル”と書いてるホテルです)には、クーラーは、そのときはなかった。外は、昼間40度の世界。ホテルに逃げ込み、ベッドに転がり込む。部屋の空気は、いくら乾燥してるとはいえ、またいくら外ほどの気温ではないとはいえ、淀みきっている。異様に熱を持っているベッド、そう、その感触こそが、今日、パズル仕事をした後へたり込んだソファーの感触に似ている。自分の身体が、ソファーの、あのガジアンテップのベッドの熱を吸収している。まさに、究極の暑さ。ここに、暑さ、きわまれりである。




2001年7月 23日(月)午前 0時12分

 いよいよ夏本番であるということは、黄紺にとってもトルコ本番のときである。が、今年は、ほとんど諦め気味のトルコ行き、とつい1週間前には、完全にそう思っていた。リクエストを出していた航空券が、梨のつぶて。そりゃ、そうだよなぁ。6月の末に、予定を大幅に変更しなきゃならなくなってしまったんだもの。それも、これ以上ないというほど難しいスケジュール。そこで、1週間弱前、旅行社に電話を入れ、進捗状況を聞きがてら、いや正確に言うと、ダメなことを確認するための電話を入れ、ダメならダメで、なりふり構わない航空券の抑えができないかを探ろうとしたのだ。「高くてもいいですから、とにかく行けないよりかは、いいですから」と強引に頼み込んだ。すると以外にも、翌日、若干期間が短くなりますが、トルコ航空なら取れました。それ以外も、手当たり次第にオファーを出しときましたという、心温まる連絡が留守電に入ってるではないか。早速翌日、確認の電話を入れ、値段を聞いてみると、自分的には、かろうじて許容範囲内。おまけに、トルコ航空だから、国内線2フライト付いている。よっしゃ、最低限、これで行ける。一遍に明るくなった黄紺なのでありました。もしこれで行くならばで言えば、8月3日出発、同日イスタンブール着、あわよくば8月4日、シーフォ引退記念試合(ベシクタシュ vs ACミラン)を観て、8月5日、ワンに飛ぶ。8月10〜12日(恐らくガジアンテップ・スポルの予定を見ると12日だろう)に予定されている「ガジアンテップ・スポル vs ガラタサライ」戦をガジアンテップで観て、8月15日、アダナからイスタンブールに飛び、翌16日、イスタンブール発の便に乗ることとなる。残念ながら、南東部を回ってる黄紺には、フェネルバフチェの試合を見やすいようには、今年はなっていない。もっと時間の余裕があれば、イスタンブールとんぼ返りの日程など組んじゃうんだけど、今年は、あまりにも短い。じっと我慢の子である、今年は。
 実は、まだ旅行社にはリクエストを出し続けているフライトがある。それは、8月2日発、20日早朝帰国のマレーシア航空便である。これだと、クアラルンプールのおまけ付きで、8月18日(土)まで、イスタンブールにいれることである。ならば、17日(金)にサッカーの試合が、イスタンブールで組まれるならば見れるということである。この可能性、黄紺にはたまらない。コジェリまで足を延ばすのならば、可能性は、より広がる。こんな感じで、只今気をもんでいる最中である。こんな直近になっても、スケジュールが確定しないなんていうのは、実に久し振りである(*)。でも、行けるだけ幸せ、である。1週間前には、ほぼ諦め状態だったんだから、、、。いずれにせよ、今回は時間がない。イスタンブールは、できるだけカットしようとしている。HPに「我が街カドゥキョイ」をアップすべく、資料収集の旅にしようと思っていたのは、とにかく延期である。また、冬に行けば、オペラなどを観るために、イスタンブールには、長目に滞在するはずだから、そのときの仕事にでもしようと、今は考えている。とにかく、今は、行ける幸せに浸っている黄紺なのでありまする

(*)そう、忘れはしない、あれは、今はイスタンブール便を持たないタイ航空で行ったときだった。でも、あのときは、アエロを抑えていたから、まだ行けるという確信があった。なんもなしというのは、今回が、初めてかもしれない。




2001年7月 19日(木)午前 1時51分

 結局、月曜日は、Ayさんとアイシェ・ハヌムと3人で呑むこととなった。ラクを呑めるいつものところである。黄紺が、仕事の関係で遅れて行くとアイシェ・ハヌムが、1人ぽつねんといる。「あれっ」と思うと同時に、「やった、かな?」という黄紺の不安が、頭をもたげる。案の定、その辺を、アイシェ・ハヌムに見透かされて、お小言をいただく。自分に非があることが分かってる黄紺は、ボルテージ上げ加減のお小言にも、えらく神妙。だって、Ayさんと約束したこと、おぼろげにしか憶えてないんだも〜ん。なんせ呑んでたもんで、約束したはずだ、皆に連絡とらなきゃ、だったはずで、動いてたもので、Ayさんが現れない現実を前にして、お小言をいただいても仕方がない。「ごめんなさい」「すいません」の連発。店の人にまで、「すいません。約束したのが呑んでたときなもんで、、、」って、むっちゃ失礼な言い訳、いや言い訳になってない。が、「あっ、来た」の一言で、アイシェ・ハヌムの顔が、一辺に晴れる。「約束したのは、憶えてたんですが、、、時間は憶えてなくて、、、場所が分からなくて、、、」と言っても、なんでも許しちゃうアイシェ・ハヌム。久し振りの再会に、ほころびっぱなし。「おい、おばはん、セッティングしたのん、俺だぞ」と、口には出さず、突っ込む。だって、あまりにもうろ覚えで、自身がないもので、、、。酒は、怖いよ。特に、最近は、憶えてないこと、電車乗り過ごすこと、多すぎだから、酒が絡むと、ついつい弱気になってしまう黄紺なのです。
 でも、おもろかったぞ。イラン・ネタは、3人で笑い転げながら、話したぞ。そのときの楽しさは、アイシェ・ハヌムが、早速AyさんのHPにカキコしてるので、分かってもらえるだろう。イランに、そんなにたくさんトルコ語分かるやついるって、Ayさんに聞くまで、ほんと想像もしてなかった。これで、“3年の刑期”のような仕事が終わる来春以降、イランへ行くぞ、片言の英語とトルコ語で、イラン行っちゃうよと、今は、本気で思っている。そう、手始めは、テヘランに入って、イスファハンとタブリースは、最低限寄って、トルコに抜けよう。そして、ドウベヤジットで、新宿黄赤くん推奨の「焼き肉屋」へ行こう。その店、自分で焼きながら食べるんだって! だから、「焼き肉屋」なのさ。でも、黄紺は、ドウベヤジット行ったとき、そんな店、目に入らなかったけどなぁって、Ayさんに言うと、「でかでかと書いてあるそうですよ」と言う。んーん、分からないけど、行ってみよう。あすこのパチャ、完全に引いてしまった黄紺、今度こそは、そのパチャ、食べるぞ! そんな話をしてると、店には、黄紺のお気に入りの曲がかかる。自然と踊ってしまう。のりのりの気分。当然、Ayさんの仕事の話も、おもしろかったなぁ。だけど、これは、オフレコ。特に、トルコ関係者には、オフレコ。でも、その職場のあたりは、よく知ってるぞ。だって、2年間通ったところの、ほん近くだもん。30年ほど前に。J子噂は、この3人で、途切れてしまうんだよなぁ。我がクラスメートで、1番早く、トルコ語を喋れるようになったJ子、果たして日本にいるのか、生きているのか。トルコで生きるAyさん、トルコにひっかかり続けてるあとの2人。さてさて、またの機会は、いつになりますやら、、、。とりあえずは、再会を祝して、ここでも、乾杯!! あっ、また、呑みすぎて、忘れてしまいそう。




2001年7月 16日(月)午前 1時20分

 もう丸1日経ってしまったが、土曜日は、完全トルコ漬けの日だった。3時から、トルコ語のお勉強会。今回からは、場所を変えたが、とっても素敵なオフィスを借り切ってという雰囲気。これで、前の会場よりは安いんだから、言うことはない。ここが5時にはねた後、お馴染みK氏と、次の会場へ移動。ところが、京都の街は、祇園祭一色。移動が大変。K氏と、初め、地下鉄で、京都駅から三条京阪経由で丸太町に行こうとしたんだけど、京都駅へ行って、びっくり。すっごい人。急遽、七条まで歩いて京阪1本で行くという安全策に変更。そう、第2部は、日本トルコ文化協会の「とぷかぷサロン」の日なのだ。
 そこでの講演について書くつもりは、ない。もう、この頃、この会に行っても会う人と言っても、知った人は、ほとんどいない。この辺が寂しいことだけど、以前なら、ここへ行けば、知った人たちで固まりを作っていたのに、人の気持ちは移ろいやすいらしく、もう何でもトルコというわけにはいかなくなったらしい。だから、会わない。この日も、「ak kedi & kara kedi」ご夫妻とYハヌムくらいだったはずなのだった。ところが、ところが、なんとAyさんが来てるじゃないっすか。驚いた、ホント。彼は、イスラエルじゃなかったのか、思わずこの質問をぶつけてしまう。「それは、もうちょっとしてから。今は、休暇なんすよ」「じゃ、トルコは?」「それが、くやしいんすよ。休暇をくれるならくれると、さっさと言ってくれりゃ、今頃、トルコなんですがね。急に休暇だから、トルコにも行けないんすよ」「行けないとなると、急に行きたくなるもんで、、、」「分かるよ。僕も、飛行機取れてないんだもん」「あっ、それ、書いてましたよね」なんて感じで、久し振りの再開が、もう嬉ひくて嬉ひくて、、、。そう言えば、あれは、いつだったか、新宿黄赤くんと2人連れだって、日本トルコ文化協会に現れたのは? あれ以来だった。
 この話を、アイシェ・ハヌムにすると、我々が出会う間に立ったJ子に、早速連絡を取ってくれた。J子とAyさんは、イズミールのトメルの同級生である。J子を訪ねていった黄紺のイズミールの旅、そのときはまだ、Ayさんは、イズミールに現れていなかった。その後である、彼がイズミールに現れたのは。だから、彼と会うと、必ず出てくるのが、イズミールの話。黄紺も、あのとき1週間、イズミールに滞在したものだから、アルサンジャックだの、バスマネ、カルシュヤカが出てくると、もうふにゃふにゃである。マニサ・ケバブ食べに、またイズミールに行きたいなぁ。そう言えば、Ayさん、トルコの地方料理収集の楽しさ言ってたなぁ。マニサ・ケバブしかり、エルズルムのジャー・ケバブしかりである。黄紺は、ロカンタで食事をしている限り、そんなに地方料理に気がつかなかったけど、その気で探せば、いやその気でなくっても、目に入るは目に入るはですよと、黄紺の感じと全く違った指摘に愕然。勉強、足らんぞ、黄紺。そんな感じで、いつもトルコ漬けのディープなAyさんの話は、ホント、いつ聞いてもおもろい。で、明日(もう今日、か!)、この続きをするんだ、アイシェ・ハヌムを交えて。T森も、仕事放り出して来ればいいのに。不届き者I氏も、トルコ語クラス放り出してくればいいのに。JUNMATSU氏、ミチコ・ハヌムは、メール見てないんだろうなぁ。そう、短期間だったんだけど、Ayさんは、我々の元同級生なのでありまする。これ、初公開。(J子は、やはり掴まらない。果たして、生きているのか? 日本にいるのか?)




2001年7月 14日(土)午前 6時35分

 この2日間、珍しく酒なしで寝てしまった。この2日、ちょっと職場から、いつもより早めに出られる関係上、好きな落語会へ2日続けて行って、帰ってきたら10時を回っていたこともある。だけど、このごろは、いつもよりかは睡眠時間を多めにとれているのに、簡単に寝てしまう。自分でも、わけが分からない。ま、こういうときもあるかと思ったら、急に酒が呑みたくなってきたので、今、ワインを片手にこれを書いている。そう言えば、寝る前に、TVをつけっぱなしにしていたら、「フィオレンティーナ vs インテル」戦をやっていた。まだ、ファーティフ・テリムが監督をしていた頃の一戦だから、随分と前のものである。Jスカイ・スポーツで、ただで見れるやつだから、文句を言うまい。インテルの方には、B.ハカンが、レコバとコンビを組んで、FWで出てる。レコバのテクニックがすごいから、どうしても、レコバばっかりが目立ち、アナウンサーも、なかなかハカンの名前を言ってくれない。でも、イタリアで、こういった対決、来季は、ファーティフ・テリムがミランだし、インテルには、エムレとオカンが入ったし、元ガラタサライ軍団が、二手に分かれて楽しませてくれる。そう思ってる内に、いつの間にやら、夢ん中。夜中の3時頃に目が覚める。知らない内に、自分で、目の前のTVは消している。なかなか感心。目が覚めると、またぞろTVをつける。またまた、Jスカイ・スポーツでは、サッカー。今度は、「バスティア vs モナコ」の一戦。フランス・リーグの試合まで、日本のTVで見られるご時世である。おまけに、バスティアと言えば、あらなつかしや、アンちゃんこと、元ガンバ監督アントネッティ監督率いるチームじゃないか。アンちゃんが監督になって、バスティアが強くなったって言うけれど、日本のTVにも登場とは恐れ入る。もっとも、相手がモナコというのが、その最大の要因だけれど、だけどそれだけじゃないほど、バスティアは上昇していることも事実。バスティアのホーム・グラウンド、ジェフのホーム・グラウンドみたいって、そのバックスタンドを見ていて思ってしまったほど、バックスタンドの観客収容人数が少ない。まあ、そんなことは、どうでもいい。フランス・サッカーを、日本のTVで見れることだけで嬉しい黄紺なのです。フランスだけじゃないよ、オランダ・リーグやポルトガル・リーグまで、定期的に日本のTVは流しているのだ。おかげで、ポルトガル・リーグで、ボンビスタの初優勝の瞬間を見ることができた。また、来季は、小野がフェイエノールトに入るので、当然オランダ・リーグの人気も上がるであろう。だけど、フェイエノールトのスタジアムは、でかいよ〜〜! ロッテルダム駅から、ベルギ−方向に3〜4駅目の線路沿いにある巨大スタジアム、大きく「フェイエノールト」の文字。あすこで、小野が出るかもしれないと思うと、それだけで興奮してくる巨大さ。
 先日、お馴染みのトルコ人のK氏と、日本のTVの以上のような話をしていたら、K氏、「それじゃ、トルコのサッカーもやってくれりゃ、いいのにね」。「無理でしょ」と言う前に、「そうそう」と相槌を打ってしまった黄紺。そんな夢のようなこと、起こる分けないと思う前に、あって欲しいなと思えるほどの実力を、トルコのサッカーは蓄えてきていると思う、確かに。まあ、そうは思っても、無理なものは無理でしょう。ただ、チャンピオンズ・リーグには、今年は、フェネルバフチェが出るから、TVで見れるはずと、決め込んでる、黄紺は。ガラタサライも、予備戦勝ち抜いてくれたら、2チームも見れる。これは、嬉しいのだ。そういった夢を抱かせてくれるシーズン前のひとときなのです、今は、、、。




2001年7月 12日(木)午前 3時03分

 (↓)を書いたら、T森より、今度は「玄人」チェック基準が、2つほど送られてきたので、紹介しようと思う。その前に、トルコ語のお勉強。こういう場合の「基準」は、“kriter”を使います。これ、「トルコ語・日本語辞書」には載ってないので、ご存知のない方、覚えておいてください。さ、それでは、その基準とやらは、、、、
 @「Ahmetと言えば、3人以上のトルコ人の顔が思い浮かぶ。」
 A「ドルムシュに乗って、集金係りとしてかいがいしく働いたことがある。」→上級者
  「その際、他の乗客に【料金間違ってるよ】と教えてあげたことがある。」→超上級者?
 めっちゃ細かい基準が送られてきたものだ。でも、感じ、すごく出てる。こんな基準考えるあなたは、間違いなく「上級者」。でも、黄紺は、@をクリアーできない。確かに、Ahmetは、よく聞くけど、「顔」まで思い浮かばない。いや、これは、単に物覚えが悪いだけかもしらないが、、、。で、Aなんだけど、最初の方の「かいがいしく」というフレーズは、ちょと気になるんだけど、だって、黄紺の顔を見ると、大概はすっ飛ばそうとするんだもん、でも流れには、完全に乗ってるので、こちらは十分にクリアー。後半の方は、そういう風にすっ飛ばそうとするから、そういう機会に恵まれてないだけで、でも正確に言うと、「ない」と言わざるをえないかもしれない。だけど、金額が大きいので、「何人?」て人数を聞き返したことは、あるぞ。また、隣り合わせた人に、料金を聞かれたこともあるぞ。だから、こちらも一応、クリアーしたことにしてね、T森!
 ドルムシュのことが出てきたので、ちょっと車中のやりとりを幾つか紹介しよう。このやりとりに関して、私たちの2番目の先生、ドクトル・今松氏に教えていただいたことを、黄紺は、完全に覚えている。取り次ぐときは、但し1人分のとき、「Suradan bir tane verin.(ここから1人分渡してください)」と言い、カプタン(「運転手」のこと、こう言うんだよ)に渡すときには、「Suradan bir tane alin(ここから1人分取ってください)」と言うのだということだった。ところが、この言い方、黄紺の知る限りでは、イスタンブール以外では聞いたことがない。「bir tane」を使うと、必ず「何人」と聞き返されたので、最近は、イスタンブール以外では、「bir kisilik」を使っている。「bir tane」は、本来「1個」を表す表現だから、このようなことが起こってるということである。ところが、いつもイスタンブール滞在時には、Cホテルを利用し、足繁くカドゥキョイとの往復をされているSハヌムは、私たちの同級生で、今やトルコ語の先生をしているNハヌムから、「bir tane」の言い回しは聞いてなかったらしく、「カドゥキョイ〜タキシム」のドルムシュ内で、「bir tane」を使われて戸惑ったと言っていた。ちょっとした勘を働かせば済む話なのだが、突然だと戸惑うらしい。この話を聞いて、ますます「bir tane」は、イスタンブール・ヴァージョンだと思っている黄紺なのです。他の町でも、「bir tane」使ってたぞと言われる方、ぜひ教えて下さいませ。こんなことを長々書きながら、ちょっと気が引けるんだが、最近、もっと簡単な言い方で、黄紺は、金の受け渡しをやっておりまする。人間、楽すること憶えると、楽しますなぁ、ほんと。「Ardimdan」の一言で、前に渡してます。要するに「後から」と言うだけなんです、はい。なんか、今日は、トルコ語教室みたいになっちまいました。いずれ、「近頃ドルムシュ噺」なんて題で、「なんでもトルコ」に書こうかと思っていたネタでした。ちゃんちゃん。




2001年7月 11日(水)午前 5時48分

 先日、BBSの方に、アイシェ・ハヌムのカキコで、我々の元同級生T森の、「てゆうか、もう素人とはトルコ行かれへん」という発言があった。そこで、今回は、「トルコ素人」度チェック・ポイントなるものを考えてみようと考えてしまった。ひょっとしたら、こうなったら「素人」の枠越えてるという書き方をするかもしれません。そして書いたあと、T森に、この駄文を送りつけて、「おまえは、本当に素人じゃないと言えるか、チェックしろいやい」と言ってやるつもりだ。但し、これを読まれている方、あまり本気にしないで読んでください、ね。言うまでもありませんが、、、。
 では、始めます。さて、幾つ書くことになりますか。
 @ツアーで行ったり、旅行社に、ホテルの全面手配をお願いしているようだと、「素人」・・・当たり前、か。
 Aイスタンブールでの行動範囲が、スルタン・アフメットや、イスティクラルに限られていると、まだ「素人」
 Bスルタン・アフメットで会うトルコ人を指して、トルコ人の理念型だと思ってる人は、「素人」
 Cエミノニュのサバ・サンドを食べて、「これだから、トルコ飯はうまい」と言いふらしている人は、まだ「素人」
 D朝食は、「白チーズ、ゼイティン、チャイ」パターンだとだけ思ってる人は、はっきり言います、「素人」
 Eトルコは、イスラムの国だから、酒は呑まないし、皆、1日5回お祈りしてるんだと思ってる人は、「ど素人」
 F遠距離バスは、オトガルからだけ乗るものと思ってる人は、まだ「素人」
 Gレハー・ムフタールの名は知らないし、顔も見たことのない人は、まだ、「素人」。これは、かなりきわどいチェック・ポイント
 Hトルコの歌手の話をしていて、タルカンとセゼン・アクス以外の名前が出てこない人は、まだ「素人」
 Iトルコの東部・東南部に行って来た人に、簡単に「危なくないんですか」と問う人は、まだ「素人」
 以上、一応10項目あげました。まだまだ出てきそうですが、それは、また書きましょう。Gが、めっちゃきわどいですが、でも、Gにひっかかる人は、トルコでTV見てないんじゃーないかって、私的には思っています。これ、読んだ人、どんどん私的「チェック・ポイント」考えてみてください。




2001年7月 8日(日)午前10時37分

 「地獄の1週間」の証か、昨晩は、ほんとによく寝た。久しぶりに外気がとても冷たくなっているにもかかわらず、窓を開けたまま寝てしまったし、目が覚めたとき、よくこの冷たさに、目が覚めなかったなと思うほど、眠りこけた。昨晩も、「マリノス vs ジュビロ」戦を見てて、後半42分に同点となり、totoが大丈夫だろうかと思いつつ、眠気に勝てなかった。アルコ−ルは、熱燗1合呑んだきりで、この低駄落である。目が覚めたとき、まだ体が寝ている状態なんだけど、totoの結果が気になって、PCつけたら、またしても3等確保。ただし金額は、なんと170円。600円投資して170円は、洒落にならない。買い方を考えて買ったつもりなのだが、当たったのは、みんな誰しもが買うだろうというものばかり。
 さてさて、前回の続きをこの辺で書き次いでみよう。1年目のN先生の授業で、今から考えると1番良かったと思うのは、月1の自由作文である。N先生自身の体験から、1番良かったものとして、この課題を課してもらえた。もとより「日本語・トルコ語辞書」というのはなく、例の赤い表紙の「トルコ語・日本語辞書」の後に、僅かだけ「日本語・トルコ語辞書」が付いているだけだから、大変である。名詞などは簡単に見つかるのだが、副詞の類になると、ほんとに手を焼いた。だから日本語を、如何に言い換えて、辞書に載っているものを探すかが勝負だった。我々のクラス・メートには、このときの作文をしっかりしていたかで、随分とその後の展開に影響があったように思える。3年目に、日本語の言い回しを、そのまま訳そうとして、K先生の目を回させた御仁や、5年も経ってから、母音調和が不十分だと嘆く御仁もいた。2人とも、作文全然やってなかったなぁ。黄紺の場合、月に1回、ある日曜日を、この作文のために、完全に使っていた。それこそ、8時間、9時間使って、ようやく自己流文章ができあがり、N先生に提出すると、真っ赤っかになって帰ってきた。その作業に劇的な変化が、ほんとに劇的な変化が生じたときがある。トルコ語教室に通いだしてから8ヶ月目に、夏休みを利用しI氏と行ったときの旅行の前後で、この変化が見られたのだ。8〜9時間かかっていたのが、同じ量を書くのに、僅かその1/3で済むようになったのである。大した内容じゃないんだけど、書こうとする内容がそれまでとは比較にならないほど、スムーズに頭の中に浮かぶようになったのである。あまりにもの変化に舞い上がる黄紺。自分にとって、生活の中で初めて聞いたトルコ語、生活の中で自分で喋ろうとした初めてのトルコ語体験だった。最初の1週間で、恐がりのI氏は、さっさと日本に帰ってしまったので、後半の1週間は、黄紺の初めてのトルコ1人旅。そのときは、そんなに考えてなかったけど、なんとか自分の意志を伝えようと、自分にできる範囲でのトルコ語を駆使しようとしていたんですね。なんと健気な黄紺。頭の中のスイッチが、ちょっとだけ違った電流流してくれたんですね、きっと。だから帰ってきて、びっくり。帰ってくるまで、そんな変化生まれてるって、分からなかった。嬉しかったっす。続ける意欲が出てきただけではなく、ここまでやって来たことが、無駄ではなかったことが確認できたときでした。そのようなチャンスを与えていただいたN先生に、とにかく感謝してます。ホント、基礎をつけていただいた。







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