GUNLUK


忙中閑あるかな? 黄紺の日々


トルコのこと、キプロスのこと、こんなことを主に、日々思うこと。ときどき、韓国のこと、 日本のことも混じるかも? 仕事に忙しくっても、頭のなかは、トルコのこと、キプロスのこと考えてる。 頭のなかは、いたって長閑。それが、、、、、、

黄紺、なのさ。







2001年9月27日(水)午前 3時50分

 今晩も、また、サッカーの結果を追いかけたくって、こんな時間に起きている。でも、ちょっと、早く起きすぎてしまったので、寝なきゃなるまいと思っている。だいたい、サッカーの結果が気になるときというのは、宵のうちに、酒をぐびぐびと呑んで、先ず寝ることにしている。そして、夜中に起きて、PC遊びをしつつ、時間が来るのを待つのである。それが、今日は、早く起きすぎてしまったというわけである。そして、その時間が来るのを待つ友が、トルコ、ないしは北キプロスのラジオ放送というわけである。まだ、この時点では、ナントもガラタサライも、点を入れていない。
 さて、「メルハバとるこ」の話を続けよう。最後の簡単な打ち上げのとき、写真家のE氏から、場所をお借りした国際交流会館の方が、「ボランティアが、これだけ多く来られるとは驚きです」と言ってられたということを聞かされたが、ほんと、各部署では、人がだぶつくのではと思うほどの、ボランティアであった。なかには、「羊々舎」のオーナーのA氏のように、関東方面から来られた方も数人おられた。初日の講演会場に入っていくと、いきなりA氏がおられ、「いやぁ、黄紺さん、久し振り」と声を掛けられたときは、正直驚いた。と同時に、氏のトルコにかける思い入れをあらためて知ることとなった。その後の3日間、ほぼご一緒させていただいたが、トルコに関する質問に応えられる氏の人柄に魅せられた素敵な時間でもあった。現事務局のSさんの前任者Tさんとも、一緒に仕事をさせてもらった。いつぞや、おなじみトルコ人のK氏の自宅でやった料理会でご一緒して、その際、黄紺も紹介されたが、まさかTさんの方に、覚えていただいてるとは、ホント恐縮しました。そして、店番をしながら、彼女の日常の活動のお話、そこには若干、黄紺の本職の経験も挟みながら、していると、この方、大変な活動家。元気な、頑張る女性を、仕事柄、多く見てきたが、この方、その中に入っても、超弩級の元気な方。思わず、お話に吸い込まれるように聞いてしまいました。何か、黄紺で、お役に立てることがあればと、正直考えています。大学で教鞭を執られているS氏は、ユニークなキャラクターだ。風貌から、アイシェ・ハヌムが人違いをしてしまったようであるが、彼と一緒になると、必ずイラン映画の話になる。大学でも、学生にキアロスタミの映画などを見せ、学生の目を点にしている。彼は、1日だけのボランティアと、最初言ってなかったっけ? 結局、4日とも、来てくれていた。それに、トルコ航空のM氏まで、同じ売り場に座ってくださった。これは、正直、びっくり。授業仲間のTさんと、「Mさんに、こんなところに、座ってもらって、いいのかな?」って、マジで話してました。彼なら、こんなイベントの場合、立派に、その肩書きを使って、メインを張ってもおかしくない御仁。黄紺なんかより、随分と年下の方なんだけど、これには、恐縮しっぱなしでした、ホント。
 考えてみれば、写真家のE氏も、3連休といえば、撮影会なんかで、稼ぎ時なんだけど、完全にこのためにあけておられた。「この日は、あけておいてください」と言われたんですよ、と簡単に言われる氏の、なんか、これも、トルコにかける思いを感じた気がした。E氏とは、イスタンブールで呑んで以来、よく言葉を交わすようになったが、彼の撮るトルコの子どもたちを見つめる眼差しというのは、確実に、人柄を表してるなぁと思えるようになりました。今回も、E氏にとっては、最もベーシックになる写真を展示されており、見させていただいたが、その感を強くしました。まだまだ書きたいことがあるのですが、今回も、続きということで、次回に譲ることとします。最後に、1つ、私的ニュース。先ほど、「地球の歩き方」編集部からメールが届き、黄紺のHPが、“トルコ関係のHP”の1つとして載せることを求められました。編集者が、「彼ら」であること、だから、もちろん快諾しました。




2001年9月26日(水)午前 6時14分

 フェネルバフチェのリヨン戦の結果を追いかけていて、結局、午前4時前から起きっぱなしで、この時間を迎えている。今日は、このまま仕事に行くから、相変わらず疲労困憊の1日を過ごさないと行けない。でも、ね、後半44分に、点を入れらることは、ないわねぇ。こないだの、代表チームの、土壇場の逆転劇以来、いいことがない。フェネルは、まだ、チャンピオンズ・リーグで、1点も入れていない。そんなチームじゃないと思うのだけど、点が入らない。そして、この間負け続け。マラテヤ・スポル状態。黄紺の憂鬱は、続いている。
 ネイセ、、、この3連休、黄紺は、日本トルコ文化協会が国際交流センターで行った「メルハバとるこ」のボランティアに出かけていた。金曜日の夜の講演会、オープニング・パーティは、一参加者として。そして、そのあとの3連休は、ボランティアとして行ってたというわけである。この3日間の内、2日半は、トルコ関係の図書販売。残りの半日は、「グランド・フィナーレ」の会場整理係をしていた。おかげで、大平さんのサズ演奏をたっぷり聴くことができた。こんなことを言ったら失礼だけど、大平さんのサズは、3度目になるが、聴くたびにサズの腕前が上がってるようで、ますますの研鑽ぶりに、頭が下がる。聞けば、94年に、初めてトルコへ行って、サズを学ばれたとか。ということは、黄紺が、初めてトルコに行ったのが、93年の暮れ。あの頃だったんだ、と思うと、自分もサズやってれば、これだけ弾けるようになったのかという妄想にとりつかれる。そんなわけない、可能性というか、素質というものが、全然違うのは分かってるから、これは、単なる妄想。でも、同じ頃にトルコに拘わりだしてたんだなぁと思うと、親しみを感じてしまう。
 しかし、図書販売をしていて気がついたことだが、いろんな人が、トルコに関心を持っていることが分かる。関係者の中には、トルコで生活している人がいるし、「こないだトルコに行ってきたんですよ」という方、何度も何度も展示室に出入りする若い男性、恐らくこの場を去りがたいのだろう、身なりにはあまりかまってないが、トルコにはかまい続けようとするオーラを感じさせてもらった。またスタッフの人たちは、黄紺と同じボランティアばかり。若い人が多く、顔も知らない人も多かったが、新しく口を交わした人も多く、なかなか楽しいひとときを持つことができた。なんか、学生時代の文化祭をしている感じ、、、。
 もっと書きたいが、仕事に出かけねばならないので、次回、続きを書くことにします。




2001年9月18日(火)午後 6時29分

 今日は、仕事が休みなので、ずっと1日家にいた。こんな時間に家にいることは、ほんと稀なのだが、今、たまたまTVをつけたら、6chで、大正区平尾の沖縄出身者の集住地をレポートしている。コーディネートは、沖縄文庫の金城氏だ。ご本人が出演されてるから間違いない。「リトル沖縄」なんて紹介している。なんか、随分と変わったものである。TVでも、戦後の、「沖縄差別」のことも如才なく触れているが、敢えてこのようなお勉強をしなければ、忘れ去られてしまいかねない出来事に入っているかのように思える。もちろん、大正に住む人たちの間では、語り継がれていくだろうし、「大正」と聞けば「沖縄」と反応する人たちも、決して消えるわけではないだろう。なんか、「沖縄」が、日本の1つの地方文化になってしまったようで、なんか、そういう雰囲気と同じような感覚で考えてしまう。「差別」が解消していくことは、まことに結構なことであるが、と同時に、「沖縄」の「独自性」が、結局、「国民的文化」に取り込まれてきながら、「みんな、同じ、日本人だ」という「いい人」感覚で、同時に、「差別」も解消に向かうという、こんな流れの中にいるような気がして、居心地が悪い。
 「近代国民国家」は、「国民的同一性」を求めて、均質な文化を模索してきた。スペインなんかは、存外その機会を、早く得たはずなのに、決して、このコンセプトが貫徹しなかった国だろう。しかし、バスクやカタロニアの独自性主張とガリシアのそれとの間に温度差があるのも、単なるパワーの問題のような気がしてならない。トルコのクルド問題も、そのほころびの代表的な1つだろう。ただ、「国民国家」づくりが、スペインなんかのそれとは、大幅に時期が違うし、単独の民族としては、クルド人は多すぎる。更に、「国民国家」を歩む国は、なんとか「異質性」を取り込むことによって、問題を顕在化させることを防ごうとしてきた。それを、「国民国家」と並ぶ近代的概念の「人権」の名の下に。これで、なんとか「近代」から外れることなく「近代国民国家」は歩むことができるようになった。但し、「人権」を守られる人たち自身の「満足度」とは関係なくだが。ただ、そのとき「異質性」をも、少なくとも結果として「排除」することを求めるという巧妙さを発揮しながら。大正の「沖縄」を見ながら、そんなことを考えさせられてしまう。今、トルコは、EU加盟に向けて、ヨーロッパ・スタンダードを、国内に適用しようとしている。それはそれで、間違ってるとは思わないが、その先に、何がやってくるかということで、21世紀に入ってから、このような試みに着手しようとしている国家として、忘れられては、単なる「猿まね」になってしまいかねない。それだけの度量のある指導者が出てくるか、そう考えると、ちょっと寂しい気がするとともに、地方を回っていると、結構急がねばならない問題かとも思い始めている。




2001年9月15日(土)午前 2時16分

 世間は、アメリカのテロで大騒ぎ。今まで、その名前すら聞いたこともないであろう人たちの間でも、「イスラム原理主義」という言葉が吐かれるようになり、それがひいては、ムスリムそのものを危険視するという、相変わらずの短絡思考が出回っている。アメリカの報道を見ると、アメリカのムスリムが肩を潜めているとか、モスクを警備する警察官の写真が、日本の新聞にも載っていた。これまた、ステレオ・タイプ的な報道かとも思うが、アメリカで、近年、ムスリムが増えていることも事実である。それも、急激に。
ウミト・カラン(ガラタサライ) ウミト・ダヴァラ(ACミラン)  自分的には、おかげで、ヨーロッパのカップ戦が中止をされたために、静かな週を送ることになってしまった。もっとも、ガラタサライの勝利の後だが。ここ10日ほど、トルコへサッカーを観に行くというS氏からメールをいただき、黄紺の知っていることを、数回に渡って連絡をする内に、向こうでの簡単な観戦メモを送ってもらった。実際に観戦した者の目として、こんな試合を見せられると、ガラタサライのファンになってしまうと言われるほどのいい試合をしたようだ。ビュレントがコメントを残したように、ポペスクの抜けた穴を、若いエムレが埋めているようだし、何よりも、カップ戦で勝ち抜くためにと迎え入れたセルゲンが、途中からにせよ、いや、まだフル出場は無理なのか、とにかく途中出場したセルゲンが見事なパスを、ウミト・カランに送ったのが光ってるようだ。これで、ウミト・カランは、今季、出場した試合全てを含めて、11試合で10点とか。ガジアンテップでは、ケガのため出場してなかったので、実際には見てないが、TV観戦したときには、そんなにうまくないし、早くもないしというFWなんだけど、点を取る。ポジショニングがいいのだろう。ツートップのもう1人が、アリフであったり、ベルカントであったりと、細かく、献身的に動くFWと組み合わせて使ってるところに、ウミト・カランが実績を残している所以だろう。そのあたりの選手起用は、ルチェスクの冴えなんだろう。だから、セルカンの出番はなくなってしまった。ウミト・カラン、ベルリン生まれのグルベッチ。ベルカントもグルベッチだから、彼が出てくれば、グルベッチのツートップということになる。
 また、この試合は、ウミト・ダヴァラの、ガラタサライでの最後の試合でもあった。ファーティフ・テリムに見出された秘蔵っ子は、やはりテリムに呼ばれたら、行かざるをえないだろう。ガジアンテップで、随分と間近で見ることができ、彼に対するイメージが随分と変わった。非常に下半身がしっかりした大きな選手というのが、そのときの印象である。こんなフィジカル的に強靱だったっけと、思わず自分の記憶を修正しなければならなかった。さあ、実際にイタリアへ行って使われるだろうか? アリフやオカン、ファーティフのように、行ったは、出られないでは、もったいなすぎ。今、丁度、TVで、ACミランのフィオレンティーナ戦をやっているが、果たして、ここのどこに入るのだろうかと考えてしまう。で、ウミト・ダヴァラのぬけたガラタサライは、その穴をどのように埋めるのか。リーグ戦では、累積警告でスアトがいない。なんか、今後のガラタサライのスタッフを見るためにも、注目しておきましょう。




2001年9月12日(水)午前 4時17分

 友人から、「ニュース見た?」という簡潔なメールを、午後10時59分付けでもらっていた。黄紺は、酔いつぶれていて、このメールを午前1時頃になって気がついたが、「えっ、1日まちがってんじゃーないの」と、そのまま、例の如く深夜のPC遊びを始めたのです。というのも、もう一昨日になるが、タキシムで、自爆テロがあり、てっきりそのことだと思ってしまったのです。そんなこと、そのテロの直後に、うちの「SON DAKIKA」に載せたくらいだから、わざわざ知らせてもらわなくっても、とっくに知ってるさと、半分以上無視してしまった。それが浅はかだったと分かったのが、Bayrak-FMのおかげである。これは、アイシェ・ハヌムから教えてもらった北キプロスのラジオ放送局である。これを教えてもらってからというもの、PC遊びをしているときは、常にかけっ放しである。今日も今日とて、これをかけていると、時々ニュースが入ってくる。それで、何やら変なことを言っているのである。アメリカのワールド・トレード・センターが襲撃された。えっ? なに? それ? という具合に、「?」が3つほど、並んでしまった。あわててTVを付けてみて、もう、絶句。映画じゃないよねぇ、これ? 発想からして、大金はたくハリウッド映画顔負けテロ。劇場犯罪って聞いたことあるけど、劇場テロや、これ! いや、テロって、元々劇場効果狙ってるかと、しょうもないこと考えてしまった。
 そんなことで、なんかトルコのテロ、吹っ飛んでしまった。久しく聞かなかったわけでもないが、そう、確かこの前は、スイス・ホテルの襲撃事件だった、しかし、なぜか、久し振りという印象を、自分的に持ってしまう。やはり、これは、PKKのテロではないからなのだろう。要するに、テロは収まらないかもしれないが、それぞれ散発的なものという印象を、黄紺は持ってしまうのです。後が続くものとは思えないのです。だからと言って、それに遭遇しないわけではないし、事実、今回も、オーストリア人の旅行者が巻き添えを食らっている。だが、これは、あくまでも確率の話なのだが、その確率は、極めて低いと考えている。自爆テロ、あまりにも悲しい響きを持っている。自分の命と引き替えに、一体何を求めているのか? 今回のテロの前に起こったタキシムでのテロは、女性テロリストだった。アポが拘束されて、そのアポに連帯すべく、また彼の拘束に抗議の意味でのテロと、報道では意味付けされた。だが、実際には、タキシムで、たまたま警官が近づいてきたので、スイッチを引いてしまったとしか思えなかった。目撃者の証言を読む限り。「行き場を失った」とかと表現されがちなのだが、あまりにも悲しい。人の命が、何ら変化が生まれようのないなかで、生まれるかのように思いなして消し去られていくのが、、、。だから、今回のテロに意味づけはされるだろう。意味づけされるところに命の重さがあるのだろうけれど、だけど、その命の替わりに、犠牲者の命も含めた命の替わりに、何が生まれるのか。たかが、テロ対策が強化されるに過ぎない。今や、そうとしか思えないのに、、、。なんとも、いたたまれない。




2001年9月 8日(土)午前 3時24分

 6日の早朝、「ドーハの悲劇」のようなことが起こった。最後の3分間で同点に、更に逆転。我が目を信じられないことが、黄紺を襲った。だから、その日は、朝から気が重かった。これが逆だったら、どんなに気分が爽快だったかと思うと、また気が重たくなる。そんな日だった、1日。更に追い打ちをかけるかのように、午後4時半過ぎ、職場にアメリカからかかってきた電話に、黄紺の気持ちは、ますます重くなる。人間って、どうしてあすこまで自分のペースで人を動かしていることに無頓着でいられるのかという典型である。要するに、「自分勝手」とか「我が儘」と一言で片づけられることを、公的に、簡単に言っちゃう人は、結局、最初からそのような理念型のようなものを、内的に持ってないということなんでしょう。それに対して、同じスタンスで話せば、この際いいかと、何度も思うのだが、それができないんだよなぁ、黄紺には。変にストイックなのが、いけない。分からないやつは、分からないって聞けない寂しさを持ってるから、その替わり言いたいことを言う、まるで、自分の分からないことを意識したくないための条件反射のように。
 最近、こんなこともあった。職場で、1つのリクエストを出され、こちらは、そのリクエストの範囲内で精一杯の努力をして、そのリクエストに応えようとする。そして、やっとできた。ところが出来上がったものに対して、「これは、納得いかない。○○ができてないから」と言う。が、その○○って、条件として聞いてないよ。本人が言ってないから聞いてないだけなんだけど、それを、こちらが作り上げたものを見てから、おく目もなく、新たな条件を出してくる。そして、それができなければ、「絶対困る」とまで言い放ったとか。その手合いが、多すぎる、世の中。「そんなアホな」ということを、普通に言う人が。
 まあ、これも、サッカーでこんな結果が出なければ、思い出さなかったことかもしれないし、当日かかってきた電話も、軽く聞き流していたかもしれない。自分の気分の重さがさせたことだけなのかもしれない。なんて思って、慰めておこう。




2001年9月 2日(日)午後11時32分

 昨日、K氏の教室が再開され、1ヶ月ぶりに再会した。その中に、明日からトルコに旅立つHベイがいた。彼は、仕事で、年に何度かトルコに足を運ぶ人。だから、メジディエキョイに部屋を借りている。間取り、家賃を聞いてみると、3部屋にサロン1つを、3人で借りて、月400ドルとか。だから、1人あたり、月1万3千円見当となる。まあ、メジディエキョイだから、他の所よりも高いことは間違いないけど、もっと狭いところだと、そして、都心部よりか離れたところとなると、黄紺でも、間借りできるのかなと思ってしまった。かねてよりトルコ移住計画を持っている黄紺だが、仕事がある関係上、その計画は、エメックリにならない限り無理かなと思うのだが、なんか、トルコに行ったとき、自分の部屋があるって、いいじゃないですか。でもなぁと、次の瞬間、現実に呼び戻されてしまう。今の黄紺の状態だと、年にトルコに滞在できる期間というのは、高々延べ1ヶ月。そして、トルコに行くと、1カ所に居を定めず、放浪の日々。たとえ、イスタンブールに居を構えたとしても、トルコにいる間の多くは、南東部をうろうろ、ディヤルバクルで食い倒れの日々を送っている。そんなじゃなぁ、所詮、今の状態じゃ、見果てぬ夢か。でも、黄紺は考えるんだ。住むんだったら、どこがいいかって。イスタンブールだったら、アジア側になれてしまっているので、そちら方向か。と言っても、カドゥキョイは高いという話を聞いたから、後背地のボスタンジュ、マルテペなどどうかと考えてしまう。ペンディックやカルタルとなると、カドゥキョイ出るまでで、随分とかかってしまいそうだから、ボツかな?  イスタンブール以外だったら、まずイズミールは、間違いなく住める。トラブゾン、OK。最近は、ガジアンテップも、いいなぁと思っています。でも、これだけは、町の雰囲気が気に入っても、放っておいてくれることが、絶対条件となるから、あまり東部・南東部は考えない。それに加えて、自然環境に馴染めなかったら、話にならないから、エルズルムもボツ。な〜〜んて、考えてるのって、めっちゃ楽しい妄想の時間。そう、今の黄紺にとっては、妄想なんだよな。それが、何よりも、悲しい。




2001年9月 1日(土)午前 2時45分

 自分的に、トルコへ行っての楽しみの1つとして、そのときそのときの音楽シーンが、どのように動いているのか、また、この後、どのように動いていくかを予想するということがある。そして、そういう観点から、大量にカセットを買い込む。これが、毎度の営みで、自分への唯一と言っていいくらいの土産である。でも、つくづくと思うんだけど、トルコもCD増えたなぁという感じ、それにつれて、間口の狭いカセット屋が、なんか減ったみたい。そして、1度トルコに行くと、耳に焼き付けられるメロディというものがあり、それが、その都度出会ったトルコの風景や、それぞれの思い出と重なり、自分の中に残っていくという具合である。例えば、息子と20日間歩いたときのマフスン、イブラヒム・エルカル、ミルケラム、ニリュフェル。息子との思い出と、完全に重なってくるし、アイドゥンも、歌手としてではなく、1人のエンターテイナーとして、2人の中に刻み込まれている。昨年の夏のデニズ・セキ、ハンデ・イエネル、ナランも、強烈だった。特に、デニズ・セキは、その前の冬に目を付けていただけに、そのブレークぶりには、大満足であった。だが、その冬、印象が薄い。先物的に、デニズ・セキに目を付けたが、枯れていたのである。実は、今回も、その傾向、なのである。町には、タルカンのポスターが溢れてたし、彼のヒット曲は、耳の奥で鳴っているが、最初のフィーバーぶりを知っているだけに、もう1つ物足りない。ニュー・アルバムを待ち望まれ、そして、その期待に応えてるのはすごいと思うが、自然に沸き上がるような、そんな感覚に乏しい感じがしてしまう。もう、彼のヒットに慣れてしまったからなのだろう、恐らく。更に、今回は、タルクの1発目や、「ちれ〜〜〜」に間に合わなかったということも、ある。それに、ミルケラムの失速も、ある。セルタブの新曲も、アルバム自体とってもいい出来だと思うが、「アシュク」のインパクト大きすぎの後だと、どうしても影が薄くなってしまうのは、致し方あるまい。テオマンはリミックスだったし、、、。エゲは、クリップ負けだし。要するに、クリップの方が目立っちゃって。アイナは買わない方針だし。イエシム・サルクムは、野壷。どうも、不完全燃焼で、この夏は、終わっちゃいました。ただ、帰ってから聴いてみて、「えー、これって、こんなに良かった?」なんて、思いながらはまってるのが、チェリックのアルバム。買い続けてるから買ったんだけど、これは、満足っす。
 今回は、クアラルンプル、ドバイ経由で行ってるので、ついでにいろんな国のカセット、買ってきました。イラン、レバノン、インド(但しタミル語のアルバム)、バングラディシュ、マレーシア、それにどこのものか分からないのが1つ。最後の一品、実は、アラビア語でだけ書かれていて分からない。解読してくれる人、募集中です。ドバイの空港では、近隣のアラブ諸国、イラン、インドのものが売られているので、ここに寄るの、大好きな黄紺です。タミル語のカセットは、クアラルンプルのインド人街で購入。いや、タミル語のものしか売ってなかった。やはり、マレーシアへ来ているインド人、南部の人多いというのは、ホントやなぁと、本で仕入れた知識を、こんな感じで確認できました。そして、最大のヒットは、バングラディシュもの。全くの初物です。私のとってもお気に入りの、クアラルンプルの某バス・ターミナルの売店で発見。てな感じで、全くの無国籍状態です、黄紺の音楽棚。




2001年8月 29日(水)午前 4時15分

 トルコから帰って、1週間が過ぎた。なんか、もう実際にあったことのようには、思えなくなってしまっている。まあ、これは、予想されたこと。が、1つ自分ながら、不思議な現象に気がついている。写真が出来上がってきたときである。それを見て、例えば、アンタクヤ(ハタイ)のチャルシュの写真を見ても感動が少なく、いやあまりつくづくと眺めず、メルシンの何気ない、特に何かがあるわけでもない風景を見ている方が、落ち着いて写真を眺めることができるのである。これは、断っておくが、決してアンタクヤのチャルシュが嫌いなわけではない。むしろあの風景に浸りたいために、これからも何度も出かけるであろうし、現に、去り際が辛く、何度も何度も振り返りながら、そして1番最後には、自分に言い聞かせるように、「また、来よう」と、1人呟いて立ち去ったほどのお気に入りなのであるが、写真を見るとそっけない。何でだろう。答は、簡単に見つかった。要するに、アンタクヤのチャルシュやハサンケイフのようなところは、特別なところであるからなのだ。6年前に、アンタクヤに初めて入ったとき、その特別性なるものを感じなかった、ほとんど。だけど、久し振りに行って、周りの禿げ山に、植林が進められている風景だの、オトガル周囲が、随分と整備されたり、ちょっとした地下商店街ができていたり、アラビヤ語表示が減ったり、前あったかどうかは知らないが、新たに、どこにでもあるよなベレディエ・パルク(早い話が市立公園か)を発見したり、そんな経験をした上でのアンタクヤなものだから、もうあすこのチャルシュは、特別なところ以外の何者でもない。市民の生活に根ざしていることは、よく分かるが、でも、あすこは特別な囲われた場所。だから、如何に気に入っていたにしても、ずっといた場所ではない。もっと他の普通のトルコにいた時間の方が、圧倒的に長いわけだから、そういう写真を見ると、いや、今見るとと言い換えた方が適切かもしれないが、落ち着くし、写真を見る値打ちというものを感じてしまうのである。
 2度目、3度目は、場所の新鮮さが、当然のことながら薄れてくるのは当たり前であるが、当初から、場所の新鮮さを、さして期待しないで行くことってある。そして、何も見つけられないで、すごすごと帰っていく場合もある。今回で言えば、イスケンデルンが、その典型である。名前に惹かれて、ずっと気になっていたので、1度は行かねばならないと思いつつ、実際に行ってみたら、地中海を東から見たぞという満足感だけで帰ってきたという所もある。でも、それはそれでいいのだ。自分の気にしているところは、やっぱ自分の目で、足で確かめなきゃ、そんな思いがあるから、何も自分的におもしろいものを見つけられなくとも、いいとしている。逆に、同じような気持ちで行って、全く予想もしないような成果があり、そばを通ると立ち寄らないわけにはいかない町がある。もう、その典型は、行った人は分かると思いますが、、、、。知らない人、トルコ語憶えて行ってください。それは、マラシュ、さ。何でって? まあ、トルコ語憶えて行ってください。そしたら、この意味、分かるから。ヤシャルのドンドゥルマも、あるしね。でも、それだけじゃーない。




2001年8月 21日(火)午後 5時27分

 早いものである。日本に帰ってきて、もう1日以上過ぎてしまった。でも1日ずれていたら、またしても大変なことになっていた。台風である。未だ記憶の薄れてない“香港の悲劇”“キャセイ恨み節”を、どうしても忘れられない。昔は、自分には、悲劇的なことは関係ない、どこかよその世界のことと考えようとしてたし、また実際にそうであった。ところが、2年間に3回、ロスト・バゲージに遭ったり、麻薬犬の餌食になったり、飛行機事故に遭遇すると、世の中の不幸を、全部、自分が背負って立ってるような気分になってしまう。ま、そう考えると、ちょっとは運が、上向いてきたかなという感じである。いえんげさんに、サッカーのチケット購入に尽力していただいたり、ほとんど諦めかけていた今夏のトルコ旅行が、第1希望のマレーシア航空で行けたり、台風はきわどく避けてくれたり、去年、ディヤルバクルで話した2人のクルド人男性と、別々にばったりと再会したりと、なんか気持ち悪いくらいに、いい方に動いている、何事も。
 さて、今回のトルコはと言えば、既に全旅程を公開したが、南東部ばかりをやはり回ってきた。アンタクヤを中心として、そのあたりを細かく回ってみようというのが、今回の試みである。実は、前回このあたりを回ったとき、有名都市を回るのに懸命だったという反省があるからである。ところが、ここで1つ困った問題が持ち上がった。というのは、8月10〜12日のいずれかに、アンテップで、ガジアンテップ・スポルとガラタサライの注目の一戦があるので、それを必ず観るための日程を組まなければならなくなった。周知のごとく、トルコでは、ヨーロッパ同様、直前になるまで、試合日程が決まらない。ましてやガラタサライが絡んでくるので、慎重にしないと滑ってしまう。ただ、両チームが、同じ週にヨーロッパのカップ戦を戦うので、まあ間違いなく12日(日)だろうとは思っていたが。一応、前日の土曜日に、アンテップ入りの日程を考えることとした。すると途端に、アダナ方向からアンテップにいる期間が短くなってしまった。短くなったからといって、マラシュは絶対に外せないし、なんて考えて、結局サラマンダーを外すこととした。終わってみると、イスケンデルンは、地中海を東から初めて見たぞというだけで、特におもしろそうなものを見つけられなかったので、こちらの方でよかったのではと思うのだが、後での後悔は、絶対大きいと思い、外せなかった。なんせイスケンデルンは、かのアレキサンドリアなんですから、、、。もう1つ、予定を、途中でがらりと変えたのは、アンテップから後の行程である。当初は、マラテヤ、エラズー方向からディヤルバクル入りを考えていた。これが、街角であった1人の男の言葉で、簡単に変わることとなった。メルシンの町をぶらついているとき、元ガイドで、今、メルシンで会社勤めをしている男である。一頻りどころか、それ以上、今のトルコ政界の腐敗について方って聞かされた後、手元に持っていた私の地図を取り上げ、「トルコの政治はダメだけど、トルコの自然や歴史遺産は、素晴らしいよ」と言って、お気に入りを次から次へと教えてくれた。その中に、ハサンケイフがあった。私の知る限り、どのガイドブックにも掲載されてない土地。でも、Ayさんから、この名前は教えてもらったことがあった。よっしゃー! ならば、行こうじゃないか。ここで、全くアンテップ以後の旅程を組み替えた。昨年同様、またしてもバットマンが、目の前に浮上してきた。あのディヤルバクルへ入った最初のとき、チャルシュの喧噪のなかを、砂埃まみれのドルムシュに書かれていたバットマンの文字、あれで、黄紺のバットマンのイメージは、勝手に作られてしまっていた。そう、あのバットマンに、本当に行こう、ついでにシールトへも足を延ばそう。ここで、やっと今回の旅程の大枠を決めたのでした。でも、この段階では、まだミディエット行きは、考えの中にすら登場していない。それが出てきたのは、バットマンについてから、翌日ハサンケイフに行くべく、ドルムシュ・ガラジに、ドルムシュを調べに行ったとき、なんとハサンケイフに行くためには、ミディエット行きに乗ればいいということが分かったからである。しかもバットマンとミディエットは、1時間の行程。びっくりして地図で確認すると、正にその通り。ミディエットは、マルディンから行くものと決め込んでいた黄紺にとっては、大収穫。Ayさん、この情報使ってね。ま、黄紺の旅行って、こんなものです。いや、こんなでないと、1人で、ぶらりと行ってる意味ないもん、そう思いません?




2001年7月 31日(火)午前 4時56分

 トルコへ行く前に、こんなに時間がないのも珍しい。いつもながら、限られた時間で、ぎりぎりの行動をしていると思っている黄紺にとって、それでも、どうしようもなく時間がなく、ひょっとしたらタイム・オーヴァーでごめんさいと言わねばならないかもしれないと思うことが、年に2〜3回あるが、こんな時期に思ったことは1度もないし、ましてやトルコ行き前だから、ストレスばかりたまる。このストレスっていうのは、帰ってきてすぐこの続きをやらねばならない。それだったら、いっそのこと行かなかったらいいのに、と思うときが1番、嫌い。だって、行くことが、帰ってきてからの辛さを高めると考えれば、そりゃ行く気が減じるよなぁ。これは、長閑ではない。特に今回は、ひどい。その最大の原因は、全く予想だにしていなかったことが起こったからに他ならない。家の崩落には、まいったよなぁ。こんな思いもかけないことが起こるかもしれない、だからちょっとした遊びを時間の中にとっておかねばならないのに、それができてなかった。また、そういうときにこそ、こんな予想してないことって起こるものと、なんか運命論者のようになってしまってるけど、ホント現実にはそんなことが多い。くそ忙しいときに、全く関係ないことを、時間制限で放り込まれること、よくあるもんな。「明日までに、○○書類作ってください」。このて、わがまま多いよなぁ。これが、相手が人間であれば、「できるわけねぇだろう!」と一括することもできようが、「常識ってものが、あるでしょ!?」なんて言うことができるが、相手が物じゃーねえ。だから、めっちゃ鬱傾向、はまってます。こんなんで、ホントに出かけて楽しいんだろうか? なんてことまで思ってる元気のない黄紺です。イスタンブールから、先ず夜行バスで、ニーデへ移動するんだと、1人で、誰もいないところで叫んでみても、やはり、元気でない。相当重症、、、。







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