忙中閑あるかな? 黄紺の日々


トルコのこと、キプロスのこと、こんなことを主に、日々思うこと。ときどき、韓国のこと、 日本のことも混じるかも? 仕事に忙しくっても、頭のなかは、トルコのこと、キプロスのこと考えてる。 頭のなかは、いたって長閑。それが、、、、、、

黄紺、なのさ。




2001年11月 2日(金)午前 1時41分

 世間では、アメリカでのテロがあってから、航空会社が痛手を被って大変だと言われている。実際、経営難が表面化した航空会社も現れた。だが、自分的には、これが、全く理解できないでいる。というのも、黄紺は、今、今年中に、2度外国へ行こうとしている。その両方について、飛行機がとれないのである。1つは、11月の連休に、韓国へ行こうとしているが、これは梨のつぶて。黄紺は、韓国へ行く場合、毎回、韓国へ行った帰りに、往復の航空券を買ってくるので、航空会社に電話1本で予約を入れれば済むのだが、その回答がないのである。往きは取れてるのだが、帰りがダメ。まあ、直前になれば取れると高をくくっているが、まだダメなのである。世間では、飛行機に乗って沖縄に行くのすら躊躇ってるという話が流れる一方で、これである。
 2つ目は、年末のトルコ行きの飛行機が、かなり厳しいようなのである。どうしてもフランスでクリスマスを過ごして、その後トルコに渡りたい黄紺は、トルコ航空撤退後、エア・フランスにターゲットを絞ったが、これが高い。それで、2つの案を立てた。1つは、比較的まだ黄紺でも買えそうなルフト・ハンザでドイツに入り、フランスに向かうというもの。もう1つは、シンガポール航空で、ダイレクトにトルコに入り、これだと結構安いので、その分で、フランス行きの航空券をトルコで買おうという計画である。ところが、混み具合は例年通り。これは、一体どういうこと? あれほど海外旅行が、航空会社が不振やと言われながら、これなのだ。シンガポール航空にオファーを出したとき、旅行者の人に言われたぞ、関空との間が混んでます。おいおい、それって、日本から出かけとるやつじゃーないか! もう何を信用していいか分からない。こんな雰囲気だから、少々遅く予約を入れてもいいと思っていたら、とんでもない。これじゃ、トルコへ行けないよ。いや、今回は自重せよということか? いや、そんなことはあるまい。このへんから、くだらない妄想が始まる。もし11月に韓国行けて、暮れにトルコ行けなかったら、また、韓国行くのもなぁとしょーもないこと考えてる。でも、その一方で、厳寒の韓国体験再びも、いいなぁと思ってる黄紺なのであります。冬の玄界灘、船で越えても、、、でも、酔えば、どうしようもないしなぁ、なんてことも考えてる。でもでも、シンガポール航空のイスタンブール便って、パキスタンの上、飛ぶのだろうか? ひょっとしたら、アフガンの、なんて考えてしまう。あーあ、この辺にしとこ。




2001年10月30日(火)午前 3時48分

 昨晩、仕事から帰ってくると、ショッキングな留守電が入っていた。高校時代の友人が亡くなったというものだった。しかも、当人のお母さんから入ったものだった。この間長い間会ってなくて、無沙汰をしていたが、逆に、同じ京都市内に住んでいたので、いつでも会えるという心やすさから、そういう感じだったのだが、この訃報は、効いた。高校時代の同級生の訃報に触れるのは、初めてではないが、実際に親しくしていた者が亡くなるのは、初めてである。電話を聞いたとき、最初思い浮かんだのは、事故かということだった。そんな、患い着いてという歳ではないので、そうは思ったのだが、同時に、頭をかすめたのが、この1.2年、年賀状の交換をしてなかったぞということだった。まさかと思い、自宅に電話を入れてみる。すると、やはり後者の勘が当たった。8年前に、直腸ガンを発症して、それ以後、手術などを繰り返していたということだった。最後は、動脈瘤破裂ということで、亡くなったということだった。お母さんとも話したが、まだまだかくしゃくとした話し方をされており、それに先だって亡くなることの無念さ、また親の悲しみは計り知れないかと思うと、まことに胸が痛む。黄紺も、人の親である。子どもに先立たれた親の悲しさは、言葉に言い表せないものがあることは分かる。「お時間の許す範囲で、まいってやって下さい」。これ以上の、悲しみに満ちた言葉はないだろう。
 実は、彼とは、幼稚園からだったと思う、そのへんのことも知ってる妻とも話したが、彼女は、小学校からだったんじゃないかって言っていたが、まあ、記憶は曖昧だが、そのくらい小さなころから知っていた間柄である。他の高校時代の友人と違って、黄紺と彼との関係に、1つだけ違うことがある。それは、黄紺が東京にいた6年間の最後の2〜3年、近くに住んでいたのである。偶然とは恐ろしいもので、大学を卒業後、家業を継ぐため、同業者の元で修行をしに来たのが、なんと黄紺のアパートから、歩いて10分程のところ。西武新宿線「中井」駅の近くに、我々の集うところはあった。東京から引き上げてくるとき、彼の車に、まだ使える白黒テレビが捨てられずに乗せて帰ってもらった。あれから、もう25年以上が過ぎ、彼は亡くなり、黄紺は生き残ってしまった。黄紺の場合は、10年前に大手術をして、両手及び下半身は、感覚マヒで、大きな痺れが残った。それまでと同じような日常生活ができる代償として。歳をとるということって、こういうことなんだろう。自分のことに一生懸命になっていて、いやそうならざるをえないところに追い込まれ、ふと気がつくと、友人が亡くなったいた。もっともっと話したかったのに。東京時代の思い出話をしたかったのに、、、、。冥福を祈る。




2001年10月28日(日)午前10時33分

 昨日は、いっぱいいっぱいトルコ日和だった。朝から、このHPをいじり、昼前から高槻に出かけ、トルコに咬んだ。日本トルコ文化協会の前の事務局Tさんが、地域の人たちと学びの場を設定し、自らトルコを看板に授業をされるという試みがあったからである。黄紺は、20年ほど前に、この高槻で勤めていたことがある。もう、その頃からそうだが、この高槻という地は、とってもとっても住民パワーが強く、地域で様々な活動の芽が出始めていた。自治体が、住民サービスとして、様々な試みをするというのは、昨今何ら珍しいことはないが、ここは、住民自らが、協力して何かを作り上げるという空気がある。それが、一つには懐かしく、ましてやトルコをネタにという試みなので、時間的になんとかなると思い覗いてみた。
 テーマは、「留学生とウシクダラを唄おう」ということで、“唄・ウシクダル”をつかみとして、最後には、それを、参加者全員で歌おうという設定で、その間に、トルコを紹介するというものであった。場所は、JR高槻駅近くのとある喫茶店。道端からオープンになった素敵なエスニック喫茶のお店。まず、この店を選ばれたのが、大ヒット。Tさんから聞いた記憶によると、確か、飛び込み的なやり方で、OKをもらわれたはず。このあたりが、やり方も、受け手も高槻らしい。Tさんのお話は、入念な下調べの元、トルコのガイダンス。時節柄、イスラムのお話に触れざるをえないのが、仕方がないことか。黙って通り過ぎるわけにもいかないだろう。黄紺は、トルコの話をする際、イスラムの話はするが、深入りは避けようとしている。それは、聞き手が、狭小な視野で、「トルコ=イスラム」という聞かんかなの態度を持ってるケースが多いからである。それにこってりと、上塗りする必要はないと思ってるからである。だけど、そうは言っても、今、この方は、流すわけにもいかないだろう。これだけ、大問題になってると、、、。で、テーマの「留学生」は、Bさんの協力で実現したものである。Bさんは、トルコ語の特徴を軸にして、日本語との近似性にも触れておられた。10名ほどの参加者のなかには、熱心にメモを取られる方もおられ、もう少し多くの方々にも聞いてもらいたいと思うイベントだった。
 それがはねて、その足で、「コナック」に直行した。4月から始まったK氏の特別授業の最終回である。授業には3名、あとの食事会には、登録者8名の内6名が参加した。その場で、以前、アイシェ・ハヌムが、日本トルコ文化協会のBBSで指摘した、協会主催の授業に関し、お知らせが送られてこなかった件、要するに、黄紺を除いて、この特別教室参加者にお知らせが送られてきてなかったわけだが、それについて、K氏を通じてパンフレットが配られ、K氏の口から、その授業内容について説明があった。タイトなスケジュールだが、よく見てみると、木曜日の夜と、土曜日の午後が空いているのに、目敏い人たちは、いち早く目がいったのではないか。その説明が一段落すると、今度は、この特別教室の今後の身の振り方が話し合われた。リタイアを表明したのは、黄紺とSさんだった。あとの方は続けるという意思表示をされ、K氏もこれを快諾するということとなった。K氏の、「生徒としてではなく、友人として、この講座に参加したい」という言葉は、なかなか心を動かされた。実は、(↓)に書いたことから、教室のある同級生から苦情をいただいた。更に、それについての説明をしたことをふまえて、昨日も、黄紺がリタイアを宣言すると、「言ってることが違うではないか」との苦言が呈された。だが、この方は、話の前提なるものを、全く踏まえられていない。4月に、この特別授業に参加するか否か、最後まで決断できず、えいやーと踏ん切った大きな背景、即ち、私の来年の3月までは、尋常じゃない忙しさにとらわれているということ、この前提で、全てを考えている、それを知ってか知らずかは分からないが、このときも、そのような発言があった。“私の心意気というのは、勝手に心意気だと思っていたということを知ったからである”と、(↓)に書いたが、やっぱ、そういうことなんだろう。でも、あまりにも、寂しい。寂しいと言っても、所詮、自分が勝手に、寂しがってるだけであるが。ただ、この教室、日本トルコ文化協会の一講座として、復活するというオプションも出てきているらしい。そうなると、元の鞘に戻るだけであるからして、黄紺が、元のように野に下るだけである。こうなると、会計の心配もしなくていいだろうから、そちら方面はいいだろうが、すっきりとそうなるのだろうか? なりそうで、ならないかもしれない。これは、黄紺のあずかり知らないところである。
 最後、K氏から教材送付の協力以来を受けて、「コナック」をあとにした。これで、再び、黄紺は、トルコ語教室から、足を洗ったことになる。




2001年10月24日(水)午前 4時50分

 今度の土曜日で、4月から加入しているトルコ語教室が、一区切りを迎える。そもそもこの教室は、日本トルコ文化協会のトルコ語教室の人たちの内、1番ハイ・クラスの人たちが、自主的に作ったものであった。その背景には、日本トルコ文化協会のトルコ語教室が盛況を迎えたのはいいが、長年続けてきたために、そこで学ぶ人たちを収容しきれなくなってしまったってことがあった。限られたスペース、限られた時間、その中で多岐に渡ったキャリアを持つ人たちを収容しきれなくなっていき、結果的にこの人たちが弾き飛ばされてしまった。そろそろ勇退をということだったのだろう。ある程度やむをえない部分もあると思うが、外野の地位にいた私としては、どんどん力を蓄えてきた人たちを、このクラスに収容できなかったものかとも思う。人数的にも、このクラスは、まだ余裕があったからである。ただ、こういった教室は、丁度、中学校や高等学校のHRよろしく、クラスというものが出来上がっていき、中途参加者は、なかなか一定でき上がった雰囲気があるところへと入りにくいものがある。ましてや、その年季が経ってるクラスには、ただそれだけで入りにくいものがある。だから、ぼちぼち引き上げどころなのかなぁと思う、が、これだけの年数、これだけの人数、即ち1クラスが運営できるほどの人数(実際、このクラス7名残っていた)が残るクラスなど、5年も経てばないものである。その貴重なトルコ愛好者のいる教室を、それだけの理由で、閉じてしまっていいものかとも思った。これは、この閉じられる話を聞いたときの黄紺の正直な感想である。だから、彼らが、協会とは関係なく、自主運営で教室を続けるという話を聞き、その協力以来が来たとき、即ち参加しませんかというお誘いをいただいたとき、最終的には受諾した最大のモチベーションは、ここにあった。この教室の内容についていける人間、要するに人数確保に、実質的に寄与できる人間は、そうはいないと見たからである。実は、黄紺、今、仕事がきつい。来年の3月までは、どうしようも身の置き所がないのである。にもかかわらず、承諾したのには、このような背景がある。
 その特別教室、おなじみトルコ人のK氏の協力がなければやってこれなかったろう。その教室が、今度の土曜日に、当初の目標(これを黄紺は途中まで知らなかった)の20回を迎える。偶然、「コナック」での授業のときである。打ち上げもかねて、授業の後は、食事会となる。そして、そこで今後を相談するということである。黄紺は、「お助けマン」だと思ってるので、今後については、何も言うつもりはない。そして、皆さんの結論がどうなるにせよ、黄紺はリタイアする気持ちでいる。もう、私の役割は終わったと思ってるからである。そして授業の進行を考えると、黄紺がいない方がいいと思っている。そしてそれを支えているのは、やはりスタンスの違いなんでしょう。もう、これは4月中に明確になっていた。私の心意気というのは、勝手に心意気だと思っていたということを知ったからである。だから、責任は、黄紺にある。でも、おかげで、久し振りにトルコ語、日本にいて、ちょっとくらい伸びたぞと思える授業に参加させてもらえた。これは、素直に感謝している。




2001年10月21日(日)午後11時23分

 先週は、トルコ関係で、3日も過ごす機会を持てた。まず、木曜日は、日本トルコ文化協会関係者と打ち上げ3次会なんてことで、「コナック」で、食べて呑んだ。なんか、この頃毎週、「コナック」へ行っている。金曜日は、この日が最後だということで、まだ行ってなかったので、同じく行ってなかったアイシェ・ハヌムと、「アサンソール(エレベーター)」を見に行った。トルコ航空のM氏とも会ったが、結局、トルコ航空の状況については聞けず終いだった。そして、土曜日は、トルコ語の教室。久し振りに、ビレジックの発掘から、Hさんが帰って来られていて参加された。9月11日には、トルコにおられたので、そのときの話を伺うと、あのテロを敢行したのは、事件発生後、アメリカ政府が、ウサマ・ビンラディンと特定するまでは、「日本赤軍」の名前が、同じ比重で取り扱われたとか。ネットで、トルコの新聞を追いかけている限りでは、そのような感じはしなかったのだが、当地の生の話を聞くと、驚くよりか方法はない。
 さて、「アサンソール」であるが、見終わった後、「おもしろいぞ、これ」と、思わず声を上げた。極めてテンポよく、が、真ん中の女弁護士と囚われのアンカーマンとのやりとり、これには時間をたっぷり当てるという手法、いやたっぷり当てすぎて、ネタが持つだろうかと思わせられたが、それが、持つのである。キャンドルの火で、パーティ気分に浸るところなど、思い切りフィクションしてくれるが、それが、それでいいのだ。何よりか、獲物狙うかのような女弁護士の妖艶な姿態が、任務遂行に欠かせるわけでもないのに、思い切り遊んでくれて、最後の脚色上の戯れ的な逆転を演出してくれている。そりゃ、そうだわな、この映画の仕掛け自体が、フィクションめいているのだから、思い切り遊んでくれればいいのだ。今まで、日本で公開されたトルコ映画というのは、あまりにも暗く、重く、難解でとか、一般に見るには、腹を据えてかからなければならないものが多かったなかで、これは出色だ。そう言えば、主演の男優は、宝塚の地中海映画祭で上映されたボスポラスの漁師役で出ていた男優だ。題名を失念してしまったが、これも、あまりにも暗く、重たかった。ほんと、全然違う。正直言って、もっと早めに行って、いろんな人に宣伝活動をすれば良かったと後悔している。それだけ、おもしろい映画だ。それは、請け合う。




2001年10月16日(火)午前 4時32分

 アイシェ・ハヌムが、日本トルコ文化協会のBBSに、若干苦情らしきものを書いている。ちょっと気になるので、ここに書いてみたいと思う。今まで来ていた授業案内が、今回は届いていないという、結構重大な問題が指摘されている。トルコ語の授業というのは、今、協会が成り立っている上での、大きな柱の1つであることを考えると、今までの功労者の1人であるアイシェ・ハヌムに、それが届いていないというのは、誠に遺憾なことは事実である。これは、いかなる理由があったとしても、先ず許されることではない。これは、はっきり明言しておく。このことが、単純なる事務上のミスであったとしてもである。ただ、この間、「メルハバとるこ」もあり、事務局が、極めて多忙であったことも事実である。恐らく今までにない緊張を強いられていたことは、推測するまでもない。そんなことは分かっていて、でも、これは落としちゃいけないってことなんです、黄紺のここまでで言いたいことは。だから、そうならば、これは、単純に「ごめんなさい」と言うべきことであると断言します。
 さて、ここからがしんどいことなんだけど、念のために言っておくが、ここからは、黄紺のイマジネーションの世界であって、アイシェ・ハヌムが、そこまで言っているかどうかは、全くあずかり知らないことであることを、予め断っておくが、問題は、そういう「単純ミス」ではないということが考えられないかということなんです。で、気になったので、アイシェ・ハヌムに、他の連絡は来ているか聞いてみた。確かに、「メルハバとるこ」のボランティア勧誘とか、キョプリュ通信は来ているとのこと。授業案内だけが来てないということだった。これは、結構ショックだった。「いろいろ考えたんだろうなぁ、アイシェ・ハヌム」、これが、それを聞いたときの黄紺の感想だ。今、財政面できつい状況にあるとともに、長年の活動の結果、多くのトルコ・ファンを開拓し、定着させるという功績を残してきた協会が、多くなりすぎたかもしれない会員、その数の多さが協会を支えているのだが、その1人1人がいてこその協会で、多くなりすぎたために生じたかもしれない歪み、もちろん単純な事務ミスも、これだからこそ起こることだが、その辺のフォロー、ちょっとした気遣いなんかで、随分と変わってくるかもしれないなぁと思わされました、ホント。人によって取り方様々、でも、トルコ好きの方が集まってる協会で、アイシェ・ハヌムのような功労者の1人に、あのようなカキコをさせるようでは、ちょっと困りものです。おなじみトルコ人のK氏が、昨晩、関係者と会食をしているはずです。このような問題も、そこで取り上げられ、話されてるのでしょうか?




2001年10月14日(日)午前 5時08分

 20年目の10月14日である。丁度今頃の、20年前をよく覚えている。それは、嵐のような夜だった。激しい風と、それにともなう横殴りの雨。窓に激しく降りつける雨音を、昨日のことのように覚えている。病院の控え室のソファーの上で仮眠していた黄紺の耳に、その雨音が鳴り続けていた。そう、そういう日だったのです。息子の生まれ出る瞬間が近づいていたのが、この時間だったのです。その日の行動も、よく覚えています。朝になったら、夜半の嵐が嘘のように静まりかえり、一転、秋晴れの空を、寝ぼけ眼をこすりながら、その日は、どうしても職場に行かなければならなかったのです。さる重大な問題が発生して、その対処に、黄紺は行かなければならなかったのです。当時は、高槻に勤めていましたので、病院から、家には寄らないで、そのまま職場に行き、また病院に戻ってくると、既に息子は生まれてました。出産への立ち会いなども、既に始まりかけていた頃ですが、そのオプションすらなかった状況が、今となっては悔やまれますが、後の祭りです。既に、名前は決まっていましたので、男でも女でも、いずれにも当てはめるというつもりで考えていたわけではないのですが、結果的に、両方いけるという名前だったので、記録用紙に、すぐじゃなかったかもしれませんが、そんなに日をおかず書き込んだのを覚えています。「砂」という字を考え出したのが、もちろん、子どもの名前の一文字なんですが、それが、自分にとって、とっても心地よく、また、周りの者も、意外さと、音の響きとともに気に入ってくれ、ホントに、このことほど、黄紺が考え出したことに、喜んでもらえたことはないのじゃないかと思うほど、皆が気に入ってくれていたので、そのとき、そそくさと書き込んだのだと思います。
 あれから、今日で、まる20年が経ちました。自分の人間関係のなかで、あいつに出会えたのが、最高の快感です。上を見ても下を見ても、横を見てもきりがないけれど、なんで、こんな自分に、こんな自分が気に入る息子がいるのか、不思議なんです。とにかく、20年経ちました。いろんな人に感謝しなければならない日です。




2001年10月13日(土)午前 7時49分

 今日、電話しようと思っている。やっぱ、行きたくなってきている。1番の衝動というのは、前々から考えてる、年に2回トルコへ行く楽しみが、頭の中で渦巻いているのである。夏、トルコに行ったとき、どうも音楽シーンを追いかける楽しみが不完全燃焼だったのを、なんとか解消したいのである。前回の状況と見比べるという、年2回トルコ滞在構想。その楽しみは、これくらいの間隔で抑えてれば、なんとかトルコの変化、時間の流れに、なんとか付いていけるのではと感じているからである。そのメルクマールは、音楽シーンと考えている。黄紺は、昔から、秋から春の間のヨーロッパに滞在し、サッカーを観たり、オペラやコンサートに出かける、これをするためにだけヨーロッパにいるというのをやれれば満足な人なのだ。冬に行けば、イスタンブールでも、そのオペラ・シーズンも始まっている。ただサッカーだけは、クリスマス前に冬休みに入ってしまうので、行けない。黄紺が行ける冬というのは、サッカーが冬休みになってる時期と重なってしまうのである。どうも、エメックリにならない限り、全ての欲求は満たされそうもない。
 今、TGRTのニュースで、アメリカは、金曜日の礼拝のために、爆撃を控えたと言っている。やっぱ、この話題かと、ここまで書いてくると、はたと立ち止まる。金曜日に停止したからといって、他の日にやってれば、同じやと思ってしまうのやけれど、違うのだろうか? 最近、「イスラムへの攻撃は止めろ」というスローガンを掲げたデモなんかの報道を、よく見る。これも、なんか気持ち悪い。トルコでも、例の如くベヤジットあたりで、警官隊と衝突があったらしい。これも、同様の立場から、同様の物言いだったらしい。なんか20世紀の間にクリアしてるはずの、いやしてこなければならなかった言葉が、亡霊のように生きているように思われてならない。世界のなかで、何が起こっているか正確な情報を持ち、自分で判断する、そんなところは、前の時代にクリアしておいてもらわないとと思う。情報のコントロールや、一時的な感情を政治の世界に援用する、なんか20世紀の間にクリアしておいてもらわないと、、、、。だったら、黄紺も、安らかにトルコに行けるのに。おまけのフランスも行けるのに。




2001年10月12日(金)午前 5時48分

 今、暮れから新年にかけて、トルコへ行くかどうか、正直言って迷っている。かねてより、この時期には、フランスとトルコ両方に行くことを計画していた。今年の暮れは、割と早く、日本を出れそうだったので、そういうときの定番、ヨーロッパでクリスマスを迎え、その後、狙いの国に、今年の場合にはトルコだが、そこへ行くというパターンで考えていた。黄紺の場合、クリスマスと言えば、カトリックの国で迎えたいと思うので、今回は、未だ足を踏み入れぬ国、フランスに狙いを定めていた。それも、1番のリクエストでは、フランスの地方空港への路線を持っているトルコ航空を利用しようとまで考えていた。そして、フランスも、リヨンに入り、ここからクレルモン・フェランへ移動し、クリスマスをなどとの図を描いていたのであった。
 ところが、その計画が頓挫する。まず、トルコ・フランス、この両国へ行こうとすると、この冬、飛行機が高すぎた。トルコ航空なんか、手が出ない。そこで、フランスだけ、トルコだけ、そんなことを考えてたら、同じカトリックなら、この際クロアチアもええなぁとか、来年の夏、イラン・トルコ国境越えしたいので、イランの下見もええなぁ、なんて考えだしていた。それだったら、黄紺に見合うようなお値段で、飛行機取れるんじゃないだろうかと考え出していた矢先、アフガン攻撃開始である。正直、びびっているのです。かえって、警備が厳重になって、いいじゃない、と思う反面、何かに出会ったなら、やっぱ、自分の執った行動に納得できないだろうなぁと思うので、躊躇してしまうのである。と言いつつも、まだ、航空券のお値段、1社しか聞いてないから、他も当たってみよかしらんと思ったり、このアフガン攻撃で、お値段変わってるかもしれないので、もう1度、一から問い合わせし直さねばならないのではないかとも考えている。どうも脳天気な黄紺と、びびりの黄紺が同居している。ホントの自分は、一体どっちなのと、自分で自分を突っ込みたい気分。でもなぁ、人騒がせだよ、あのテロ。




2001年10月 8日(月)午後 2時18分

 昨夕、「メルハバとるこ」の打ち上げがあった。たっぷりと用意されたドルージアの赤をたっぷり呑み、更にその後出てきたラクも、満足げにいただき、そろそろお開きにしないと、呑みすぎ、食い過ぎというところへ、写真家のE氏、「さ、2次会、行きますか」。それを聞いて、ふらふら〜〜っと、その気になり、また、呑んだというより、お腹はち切れそうな上に、また食べた。ピザにピラフにと、なぜか澱粉系を、口が求める。皆さんが、まだまだ呑んでるのに、黄紺は、はやばやと限界。1人、先に失礼して、ばたんギュー。「日本・ナイジェリア」戦が気になりながら起きられない。ようやく、前半終了間際から、起き出してみると、大変な悪コンディション。でも、なかなかいい試合してる。常に先制などしてる。ナイジェリアに目を移すと、あら、懐かしや、オコチャが頑張ってる。めちゃ、いい味出してるオコチャ。懲りすぎると思えるようなアイデアに酔うようなオコチャ。オコチャが持つと、見てる黄紺に、力が入ってしまう。キーパーに目を移すと、昨季まで、ベシクタシュの正キーパー、ショルム。ダウム監督に疎まれ、出番が全然ない彼の、人の良さそうな表情、とってもいい感じ。柳沢のゴールのときは、ちょっと出方が中途半端だったけどね。まあ、日本の立場に立てば、セネガル戦の完敗に比べれば、いい試合だったので、良かったんじゃーないかな? だが、それとときを同じくして、、、、。
 朝から、どのTVを見ても、アフガン攻撃ばかりである。ニュース性という点では、当然かと思う。それを、半寝の状態で見続けながら、また、どこかでテロが起こらなければいいが、また、ベトナムの二の舞になるのではと、通り一遍のことを考えながら、一方で、冬の旅行、どうしようかと自分のことを、他はどうでもいい、自分が行けるかどうかだけを考えている。他方、心配なことも、見えてくる。パキスタン、今の状態、持続できるだろうか、核、どこかへ行ってしまわないだろうか、ウズベキスタンやタジキスタンに、アフガンの紛争が飛び火しないだろうか。評論家である自分と、自分の旅行の安全をだけを考える自分とが、黄紺の中で行きつ戻りつしている。とりあえず、韓国くらいなら、行って帰ってきても、大丈夫かと思っている。
 先日、高槻で、マスード将軍追悼をする長倉洋海講演会・写真展があった。アイシェ・ハヌムから情報をもらっておきながら、当日会議が入り、その会議も早く終わっておりながら、その存在は忘却の彼方にいっていた。ところが、黄紺の同僚が、別筋から情報を得て、行ってきた。そのときの氏の話とともに、買ってこられた写真集を見ると、マスードの懐の深さが分かってきて、なんとも惜しい気持ちになっている。そのマスードの最後が、報道されるようになった。全てがリンクしている。今、パキスタンは、タリバン攻撃のために、アメリカの要請に応える一方、北部同盟の強大化を否定する。その北部同盟には、米英の昨晩の攻撃は知らされていた。こんな状態で、パキスタン、持つのだろうか? ここが崩れれば、アメリカの思惑、全部変わってしまう。なんでもありの時代、何が起こるか、分からない。




2001年10月 2日(火)午前 3時43分

 (↓)を書いたところ、早速アイシェ・ハヌムから、黄紺の書いたことに関し、質問というか、若干の注意喚起を込めたそのようなものをもらった。これが、言葉は悪いが、頭の体操的に、考えさせられる問題だった。具体的には、別稿を立ち上げようと思ってるので、今、書くつもりはないが、黄紺のちょっとした、それは無意識の表現なんだろうが、それに食いつてもらったことに、感謝している。文章化する機会を与えられたのだから。で、今のところ考えているのは、「なんでもトルコ」に「日本で考えたこと」「日本で考えたトルコ」なんていうパートを設けて、この手の問題を書くなんてことをしてみたい。
 ところで、土曜日、おなじみトルコ人K氏と話していて、興味のあることを言っていた。例のテロ勃発後、アメリカを始めとして、報復のための準備に余念がない。日本もトルコも、もちろんこれに咬んでるのは周知の事実である。なんの拍子か、この話になった。すると途端に、怒り出すK氏。日本のベートーベン・サチル首相のすることは間違ってると断言するK氏。したり顔の黄紺。「今、沖縄に行く人、少なくなってるんですよねぇ。行きたがらないんですよねぇ。そんなこと作り出す首相って、いるかなぁ」。これは、2人で一致した考え。要するに、一国の首相たるもの、自国民の明らかに危険となること、していいのかなぁということである。「福祉」や「平和」が、「革新」と呼ばれた政党の専売特許じゃなくなって久しいが、その「革新」と呼ばれた政党が主張した「巻き込まれ」論が、我々、日本に住む人間の中に浸透しているのが、なんともおかしな現象というか、そんな感じでいたところに、K氏のお言葉。存外トルコ人って、力に自信あるから、いやそう思えるように、多少の犠牲を払ってまでも、軍事力の強化に務めてきたお国柄の人として、特に周囲との関係で、力に頼る傾向を否定できないと思っていた黄紺にとっては、まことにもって新鮮に響いたK氏の発言。あーあ、もっと書きたいけど、眠い、、、。ダウン、じゃ。




2001年9月30日(日)午前12時27分

 アイシェ・ハヌムがBBSに書いているように、昨晩は、全くもって、おもしろい宵を過ごすことができた。いきさつを書こう。まず、大阪のトルコ料理店「イスタンブール・コナック」で、カーヌーンのライヴ演奏が、昨晩1晩だけされるという情報が、Webサイトから先ず、そして、実際に同店に行ったとき、オーナーのル○氏から教えられた。それが、また、月末の土曜日ということで、K氏の特別クラスの授業を「コナック」でする日と来てた。最初知ったとき、これは、おじゃまになるかなとと思ったものだが、実際に、ル○氏に聞くと、別に授業の時間とは違うし、その後食事会をしてるんだから、丁度いいじゃないですかとのお言葉。で、ならばと、企画は進んでいった。だが、肝心要の授業が、様々は都合により成立をしない。しかし、夜には「コナック」へ来れるという人は、カーヌーンを聞きたい。ということで、なんと、恒例の授業後の月1度の食事会だけが残ってしまったのである。
 そこで、黄紺は困ってしまった。土曜日の仕事が終わってから、夜まですることがない。そんなことを考えているとき、1つの情報が、黄紺にもたらされた。大阪市の無駄遣いの象徴「南港」のATCで、「ツアー・エキスポ2001」が開かれているという情報が、2.3日前に飛び込んできた。よっしゃ、これだ、時間つぶしに、うってつけということで、行ってきました。ウズベキスタン航空やトルコ航空も無料航空券を出しているから、行かない手はない。先週の「メルハバとるこ」では、万が一当たったらみっともないので、応募を控えたので、今回は、力を入れて臨んだ。会場に足を運ぶと、くらくらするような国が並んでる。ウズベキスタンはもちろん、チュニジアにタンザニア、ボツワナには、完全にのけぞった。黄紺の高校時代の友人にブルキナファソがいいと言って胸を張るやつがいるが、多くの人が足を運ぶこのイベント、宣伝して、行くんだろかと思わず思ってしまう。で、我がトルコはといえば、トルコ政府観光局とトルコ航空、そして、なんと「イズミール商工会議所」なんて看板が掛かってる。お世話をされてるfatmaさんと思しき女性、「イズミールから2人も来られてるんです。でも、この看板じゃ、誰も立ち寄ってくれない」。確かに、イズミールの華やかさ、明るさのかけらもない。うーん、気の毒。もっと違う仕方のPRないのかなと思って、隣のブースの「トルコ航空」を見ると、見覚えのあるM氏のお姿。声を掛けて、しばし立ち話。するとここで初めて、黄紺の頭の中で2つのことが結びついた。そう、カーヌーン奏者の方は、6ヶ月間、柏崎で演奏して、帰国前に、大阪で、このイベントに参加される、それを1日前に、「コナック」がゲットした。という構図だということだ。M氏は、逆に「コナック」で演奏があることをご存知なかった。その旨を告げると、後で合流するということだった。
 そんな半分時間潰しをしてから「コナック」へ行くと、結構知った顔を見る。なんかお馴染みさんのために、企画していただいたようで、ちょっぴり申し訳ない気分。K氏を始めとしてトルコ人も、その中に混じっている。一方、ここの雰囲気に慣れてない人もおり、時間をそれぞれ待っている。やがて、時間が来る。最初の演奏は、「ウシクダラ」の変化ヴァージョン。が、それから後、予想もしていなかった雰囲気に。カーヌーン奏者が1曲弾き出せば、トルコ人・クルド人(中にクルド人のS氏がいた)は、一斉に歌い出す。すると、1曲が終わると、また次のリクエストが出る。また、トルコ人・クルド人は歌う。それを、「なんで、なんで」と叫んでる日本人たち。どうやら、文部省唱歌のような歌を、次から次へと弾き、歌ってるような雰囲気だ。我々には、全く付いていけない雰囲気。説明を求めても、陶酔状態で、応えてくれない。でも、今まで見たことないトルコ人・クルド人、見たぞ。カーヌーン聴けたのも良かったけど、こんな雰囲気も味わえたのも、大収穫の夜でした。儲けものって、このことです、な。







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