2014年 3月 2日(日)午前 6時 30分
昨日は、全日勤務日。ただ黄紺には、午後からはあまり仕事はなかったので、休暇をとり大阪市内へ。なんせ、世間は土曜日ですからね。まず行き先は「動楽亭」。今日から始まる昼席に行ってまいりました。その番組は、次のようなものでした。小鯛「平林」、吉の丞「化物使い」、南天「いらち俥」、米左「愛宕山」、(中入り)、米二「始末の極意」、文之助「一文笛」。行く前から予想していたことが的中してしまいました。一昨夜の睡眠時間が3時間半ほど、おまけに午前中の仕事は立ちんぼの仕事。眠りこけてしまいました。どうやらいびきまでかいてしまったようで、隣に座っていた方から睨まれてしまいました。もうサイテーです。完全にまともに聴けたのは「一文笛」だけ。その「一文笛」がヒット作なのです。文之助の「一文笛」って、ピンと来ないのです。最初、マクラで泥棒ネタをふるものですから、何をすのが判らなくて、そしたら一転してスリに絞ったものですから、頭の中が大混乱。文之助と「一文笛」が結びつかなかったからです。聴かせていって聴かせていって、最後にストーンと、ほぼきれいに落ちたんじゃないかな。ほぼというのは、文之助の軽いタッチの口調が、ちょっと、子どもの身投げ話のところで、災いとなったかなと思われたからです。あとはまともに聴けてないのですが、吉の丞の「化物使い」は惜しいことをしました。今、このネタをする噺家さんが、とっても少ないものですから、ネタの復習をするに、いい機会だったのですが、半ば以後は、意識が飛んでしまってます。「化物使い」を、一番最近聴いたのも吉の丞でしたね、確か。なお、南天は雀喜の代演。雀喜がインフルエンザでダウンしたからだそうです。
動楽亭を出ると、外は雨。歩いての移動を考えていたのですが、雨では仕方ありません。御堂筋線で「難波」に向かい、昨日も、千日前のネットカフェで時間調整。そして、夜は「応天院」であった「満月動物園」の公演「ash Melody 〜遺灰の歌〜」を観てまいりました。新たに劇団員として、二人が加入したこともあり、10年前の初期の作品の再演だそうです。10年前と言われても、10年前には、この劇団の欠片も知りませんでしたから、自分的には新しい作品を観るのと、全く変わりはありませんでした。ただ幾つか、この劇団の公演を観てきていますが、明らかにタッチの違う芝居だったものですから、新鮮であったことは間違いありません。舞台は、背後に箱を置いて、一段高い部分が、左右対称に作られているだけというシンプルなもの。但し、全面白い布で被っているのが特徴。その白い布に、プロジェクターを用いて、CG映像と文字を投影するという手法を多用するのが、大きな特徴と言えます。ただちょっと使いすぎ、しかも同じパターンが多く、あまり好意的には観ることはできなかったな。舞台設定は、架空の世界。色んな国があり戦争が絶えない世界。その世界に生きる2人のウタビトが主人公となっていますが、もう一人加えてもいいんじゃないかな。一人は、突然姿を消した父親を探し求める女、次の一人は、ギター弾きの弟とともに広場で、毎日歌を歌う女、そして、もう一人は、各国の王のもとを巡り歌を歌い歓迎されたが、突然、若くして姿を消した女が、交わる一つの国、一つの町のクリーニング屋が舞台。それぞれの過去が明らかになるにつれ、各自が係わってきた戦争の影が明らかになってくるという仕掛けとなっていました。その一方で、「言葉」について発信する台詞が各所で出てきました。それとの関連が判らないのです。基本的には反戦の意識を感じさせる佳作です。そういった意味でいい台詞がありました。何度か繰り返される中で、ようやく終盤、共感しあえる反戦の意味合いが理解できたところで、そのいい台詞が入ってきました。哀しみの怒り、怒りを否定し、哀しみを推す台詞が、ここまで下がってもいいのかとさえ思わせられる優れものの言葉。哀しみには哀しみの歌をウタビトは歌おう。怒りを哀しみに転化させるような哀しみの歌を歌おう。怒りの連鎖、憎しみの連鎖からは、何も生まれるものではないとの強いメッセージを感じました。消極性が積極性を生む力となりうるということなのでしょう。こういった発想からくる言葉に出逢ったのは、初めての経験と言えます。
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