Aデン・ハーグの移民街へジャンプ


【番外編ヨーロッパの中のトルコ】@ウィーン(オーストリア)の中のトルコ人

 ウィーン国立歌劇場の南西に、ナッシュマルクトというものがある。更にそれに続い て、蚤の市が開かれるというので、そこを訪ねてみた。ただ、その両方を見ることがで きるのは、土曜日の午前中だけと、ものの本に記してある。それを一早く見つけた息子 が、丁度土曜日にウィーンに滞在することから、ぜひ行ってみようと言ったことが、そ もそもの出発点である。
 当該の地下鉄の駅に着くと、懇切丁寧なウィーンの地下鉄は、ナッシュマルクトに行 くのなら、この駅で下車すべしと告げている。その車内放送を聞いて、他の乗客ととも に、弾かれるように外へ出る。一度息子とはぐれてから、息子の位置を常に確認しなが ら歩く癖が出来始めていた僕にとって、ここは大変な人集りのため、神経を使う。地下 鉄の出口を挟んで、ナッシュ・マルクト方向と蚤の市方向へと、丁度分かれている。ま ずはナッシュマルクト方向へと、歩を進める。初めは屋外市という感じで、テントを張 って花屋などが並ぷごくありふれた風景であり、この市の持ち味であるエスニックな店 は、まだない。ところがものの50mも進むと、その光景は一変する。まず、臨時に立て られた屋外の市から、常設の堅固な店構えへと変わっていく。そして、そこで売られて いるものが、実におもしろい。八百屋のような生鮮食料品が売られているかと思えば、 一挙に店構えから何から何まで、ウイ一ンがウィーンでなくなってしまう。インドの食 材を扱っている店に入ると、店主は案の定インド人である。もう少し行くと、華僑と思 えるアジア系の人物が、中国物産店を開いている。書画の類が店に並べてある。また少 し歩くと、「東亜商店」の名が見える。その文字と並んで、その店名が、ハングル表示 されている。こちらは韓国物産店かと思い中に入ると、そこはそれ、店名のままである。 韓国の物産はもちろんのこと、中国の物も並び、更に我々を驚かせたのは、なんと日本 のインスタント食品やスナック菓子が売られていたことである。まさか、ウィーンのど まん中で、「サッボロー番」や「かっばえびせん」にお目にかかるとは、夢にも思わな かった。そのようななか、ここで圧倒的に多いのが、トルコ人の店なのである。ドネル ・サンドの店から、ラフマジュンに、ロクムやワグラワのようなお菓子類まで、店頭に 並べられてある。また、様々なオリーブの実などの並べ方は、トルコで実際に見かける 同様の店舗と、店先に関しては、全く同じと言っていい程のオリープ屋が、存在する。 これには、さすがの僕などは、息子どころではない。はや興奮状態である。息子の同意 も不十分なまま、ドネル・サンドを二人で一人前食べることを決めてしまった僕は、店 に飛び込むしまつである。店と言っても、屋台と言った方がいいだろう。丁度、前の客 に対する応対を見ていると、オーストリア人に対しては、流暢なドイツ語で、またトル コ人らしき男にはトルコ語で応対している。しかも、どちらに対してもそつなく応対し ているではないか。ますます舞い上がった僕は、自分の番が回ってくると、トルコ語で お兄さんに話しかける。「その大きさのやつ、一つくれないか」「一つかい。何をはさ もうか」「全部頼むよ。玉ネギも、トマトも、ヨーグルトも。全部ね」「で、いくらだ い」「35シリングだ」。僕が、50シリング払うと、「5シリング持ってないか」「残念 だけど、ないよ」でな具合に、正にトルコでのように、ウィーンで話しているのである。 そして、先程朝食をけっこうおなかが膨れるくらい食べたにもかかわらず、立ちんぼで 息子とかわるがわるドネル・サンドを頬張る。至福のときである。
 それから気をつけていると、ウィーンの中のトルコが視野に入ってくる。我々のウィ ーンの二つ目のホテルで、我々の前でチェックインしていたのは、トルコ人のカップル だし、また地下鉄の近くにある売店で、息子と一緒に日本の新聞を探していると、トル コの新聞が4種類も売られていた。日本にもあるような地下鉄の普通の売店で、ドイツ 語の新聞と同じように、ウィークリーではなくディリーのトルコの新聞が売られている のです。また、本屋でトルコ人青年同士が、トルコ語で会話をしているところに遭遇し たり(その本屋でもトルコの新聞を売っていた)、シェーンブルン宮殿で、トルコ人の 一団に、ドイツ語のガイドがトルコ語に同時通訳されていたりと、それぞれ趣は違えど、 様々な場面でトルコ人に会うことができたのである。こんなことは、同じヨ一ロッパの 中のイタリアでは経験したことのない出来事で嬉しい思いをするとともに、なにかしら 自分め中に、戸惑いのよつなものが出てくるのは避けることができなかった。確かに、 ものの本に拠ると、ドイツには随分と多くのトルコ人がいることが書かれている。在独 トルコ人社会は長いもので3世の時代を迎えていると言われている。またドイツの主要 都市では、トルコ人の集住地域があること、更にドイツの景気の停滞が、ネオ・ナチに よるトルコ人襲撃事件を生んでいることなど、悲惨な事件も巷間伝えられている。そう いった話を想起させるほど、ウィーンにはトルコ人が目立つのである。かつて、オスマ ン・トルコは、ウィーンを攻囲すること数度、ついに落とすことができなかった。その ウィーンに、今、トルコ人が流れ込んでいる。なんとも歴史の皮肉を感じるのである。
  (注)サバハのような、トルコの有名新聞は、ヨーロッパ版を日々出している。ヨ
   ーロッパ在住のトルコ人をネタにしたオリジナルな記事も含まれており、また、
   広告欄も、ローカル・ネタが盛り込まれている。それらを見ていると、ヨーロッ
   パと言っても、ドイツが多いが、トルコ・レストランの位置とかが把握できると
   いうものである。





【番外編ヨーロッパの中のトルコ】Aデン・ハーグ(オランダ)の移民街

 キプロスに行くためにアムステルダムに寄りながら、アムステルダム市内に入らず、 またオランダ自体には、そうは魅力を感じず、結局1泊だけすることとなった。一つに は、スキポール空港にアクセスがしやすく、なおかつ僕自身の興味関心をそそる土地で なければならなかった。そこで、選ばれたのがデン・ハーグである。承知の如く、国 際司法裁判所があり、またオランダ王宮もあり、その他オランダの政治の中心として知 られた町である。実は、僕自身の関心は、まさにそこにあり、マウリツァス美術館で、 ネーデルランド絵画の華を、直接肌で感じることにあった。ところが、それらは、僕に 十分すぎるくらいの興味を引いたが、いやそれ以上にそそられたものが、実際にはあっ たのだ。それを、僕は、現地に立つまで知らなかったし、また日本の多くの人たちも知 らないことではないだろうか。
デン・ハーグ中央駅というのは、アムステルダムからロッテルダム方向に向かう幹線 からの引込線となっているので、僕の場合、ベルギーのアントワープから、その幹線に 沿って、アムステルダム方向に戻ってきたので、その中央駅に入るのが面倒なため、も う一つの重要なデン・ハーグ駅に降り立った。12月26日、オランダは、クリスマス第2 日目として、この日も、祝日である。駅の両替屋は、10時にならないと開かないし、ま た開いても、1人の女性が、段取り悪く動いているだけで、完全に町の空気が眠ってい る。もっとも、オランダの段取りの悪さ、要領の悪さ、センスのなさなんかは、この日 だけではないが。1O時頃に駅に着いてしまった僕は、ホテルを捜すために、町に繰り出 してみる。が、ここは、もう一つ、眠っている。どのホテルも、ドアの前に、「今日は 、部屋は一杯です」との表示。こんな朝の早くから、そんなわけないのであるから、結 局、まだ眠っているのである。だから、どんどん町の中を歩き続ける。しかし、どうも 眠っているこの町、なんか、様子がへんだと、先程から感じ出している自分があるので ある。僅かに開いていた簡易食堂のような店に集う人の顔の形状が、どうもオランダ人ぽく ない。また、先程通り過ぎた店の看板こは、イスラム食材などというものが目に付いた 。また、目の前に、同様の店が現れた。もう少し歩いていると、今度は、漢字が現れて くる。漢字の字体からして、中国本土とは、明らかに違う。香港は行ったことがあるの で、雰囲気的に使われている漢字を見ることは、ちょっとくらいできるが、どうも、そ れと似てるようで、そうとは断定できない。恐らく台湾系華僑の人たちの居住区である ようである。そのような店が、何件も軒を連ねていると言えばいいだろうか。そう、ど うやら、この駅前一帯、正確に言えば、この駅前から、町の中心部に向けての一帯が、 移民の人たちが多数居住する、だからまた、その人たちを当て込んだ店が集まってきて いる場所なのである。だが、やはりオランダはオランダであり、アジアではない。ごち ゃごちゃとそのような店なんかが混在しているのではなく、整然と静かにその街区は整 っているのである。それで、実は、手持ちガイドブックに、「駅前にエコノミーなホテルが 並んでいるが、夜は、女性の1人歩きは控えるように」と書かれている訳が分かった。 なんてことはない、この移民街で宿泊経験を持つ投稿者が、この雰囲気を見て、短絡的 に、そのように書き送ったものであろう。夜、1人歩きを、実際行った者として、念の ために書き添えておくが、そんな雰囲気は、微塵も感じはしなかった。
 先程書いた地区より、更に少しばかり中心部に寄ったところを、翌27日の朝通ったと きである。道路にはみ出るような状態で、人があふれている。どうも顔付きが、トルコ 人ほい。実は、移民街の中に、既にトルコ人の店を見つけてはいたが、そこで見かけた デン・ハーグ移民街にあるジャーミ− トルコ人らしき人の数は、店の数に比して、あまりにも多い。「えっ」と思って、何気 なく上を見上げると、そこに横断幕がかけられている。「バイラム・クトゥル・オルス ン」と、トルコ語で書かれているのである。丁度、その日が、ラマザン(断食用)明け 1日目で、要するにシュケル・バイラム(砂糖祭)だったため、そのシュケル・バイラ ムをお祝いしますという意味の横断幕が掛かっていたのである。しかも、それがトルコ 語で。で、そこに、なぜ、そのような横断幕が掛かっていたのか。そこは、それまで、 2〜3度前を通りながら、もの自体が、表通りから少し中に引っ込んでいたので気づい いなかったのだが、なんとジャーミー(モスク)があったのである。そこそこの大 きさを持つ立派なジャーミーがあったのである。恐らく、シュケル・バイラムのための ナマズ(祈り)のために、近くの移民街に住むトルコ人が、このジャーミーに集まって きていたのだろう。なかには、アラブ系のムスリムたちも混じっていたのかもしれない が、横断幕には、トルコ語だけでの表記であった。
その前の晩、ビネンホフの前で食事をして、ホテルに戻るとき、その移民街を歩いて いて、トルコ人の経営する1軒のバッカル(雑貨屋、韓国の「スバ」に似ているなと、 いつも思っている)に立ち寄った。入っていくと、入口のレジのところで、3〜4人の 男が、トルコ語で話している。野菜なんかも少々置いている店の中を、くるっと1回り して、何も買う物がないので、さっと店を出たところ、道路に面したショーウィンドウ にワクラワ発見。思わずきぴすを返して店に戻り、レジのトルコ人のお兄ちゃんに、声 を掛ける。「2つだけ、売ってくれる?」、無言で2つ取って、紙に包んでくれる。「 いくら?」、また無言で、うつむき加減に、こちらも見ず、レジを打って、金額を示し 、小声で、金額の数字を、トルコ語で復唱するお兄ちゃん。お金を渡し、お釣りをくれ ようとするので、「サー・オル(有難う)」と、僅か2個だけなのに売ってくれたので 、そう声を掛ける。すると向こうも、また小声で、こちらも見ず、「サー・オル」。で 、そのまま店を出る。なんじゃ、今の応対。ん?いやいや、愛想がないんじゃない。 今のお兄ちゃん、こんなところで、そう、オランダなんてところで、この顔をした者か ら、突然トルコ語で買い物をされて、固まってしまったんだ、ん、まちがいない。緊張 してしまったに違い、ない。そう思いながら、歩を進めていくと、間違いなく零下の気 温のデン・ハーグではあったが、なんかここへ来た値打ちみたいなものを感じ、胸は、 ほかほかものでった。@へ戻る







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