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【北キプロス編】Dグリーン・ラインを越える

 事実上二つの主権の存する島、キプロス。この二つを往き来する方法は。どのようにすれば、可能なのだろうか。例えば、北キプロス在住のトルコ人が、トルコ以外の外国へ出かけようとすると、どのような方法があるのか。なんせ、北キプロスという国、世界中で。トルコだけが承認をしているのであるからして、北キプロスのパスポートを持っていても、トルコ以外では、全くもって相手にされないのである。そのため、北キプロス在住の人たちは、トルコ国籍を取得していたり、または、南のキプロスのパスポートを所持しているのである。後者については、旧宗主国のイギリスが、その便宜を図っているようであるが、北キプロスとしては、喜ぶべきことではなく、また実際には、取得できる数も、制限があるようなことを、新聞報道で目にしたことがある。イングランドのプレミア・リーグで活躍する北キプロス出身者2世のムッズィ選手は、結局、国際社会で活躍の場を得るためには、トルコ代表チームに入らねばならなかった。これが、現在の北キプロスの、国際的な位置である。だから、上記のような方法を取ることにより、移動も僅かながら可能なのである。
 では、日本国籍を持つ僕が、この両者を往来することは可能なのだろうか。勿論、北から南へ、また南から北へと、第3国を経由してなら、何ら問題はない。但し、以前にも書いたように、北キプロスのスタンプがパスポートに押されてないことが条件であるが。いや、そんなことではない。直接両者を往来する方法が、我々にはあるのだ。ただ唯一の方法は、南から北へであって、北から南はだめである。北は出ることができても南が受け入れていないということである。だめだと言われているので、僕自身は試したことはないが。そこで、その唯一の方法、南から北へを紹介しよう。
 レフコシャの旧市街、南の方は、現在、城壁はなくなっているが、かつての城壁沿いに環状の道路がある。その道を、北側に向かって時計回リに、どんどん歩いていく。丁度、素晴らしい歴史遺産を多く展示している考古学博物館から来た道と交差する地点が、ボーダーへの入り口と考えていいし、また北側が、最も南に出っ張った所だと考えてもいいだろう。僕は、この地点、いやこのような地点があるとは、この場に来るまで想像もしていなかったし、今もって、驚きを禁じ得ないのである。というのは、その交差点の北東の角に8mくらいの崖があり、その上に金網が張ってある。で、その金網の向こうが、もう、そこは北なのである。崖の上からは、金網越しに、南を見下ろせる状態になっているし、実際、北のシュケル・バイラム(ラマザン明けのお祝いの日々)で休暇をもらったトルコ兵たちが、ボーダーに向かう僕と、言葉を交わせるほどの距離であると考えてもらえばよい。要するに、ここには、「グリーンライン」と呼ばれる国連監視の緩衝地帯が存在せず、北と南がダイレクトに接しているのである。もっともそのためにか、先程の交差点から、旧城壁を入った地点(南側)には、丁度金網を張った崖に、道路を挟んで対置する所にある建物には、国連軍が、このポイントを監視をしてはいるが(緩衝地帯を撮影をする 国連軍の兵士に叱責されたときの写真。真ん中奥の建物が国連軍 ことは憚れるので、一切写真は撮らなかった僕だが、ここだけこっそり撮ろうとして見つかり、叱責されてしまいました)。そのようなポイントだと知ったとき、僕の思ったことは、「こりゃ、本気で武力衝突が起これば、危なすぎるよ。いや、こんなとこがある以上、そりゃないよな」ということであった。むしろ、お互いに、今や武力衝突を「抑止」するために機能するのではないかと思わせるほど、顔を突き合わせているのである。
 さて、そのような地点に気を取られつつ、更に環状の道路を進んでいく。しばらく、先程の金網は続くが、まもなくそれも離れていき、やがて、右側に平屋の小さな建物が見えてくる。そこまで交差点から、ものの5分も歩かない。ボーダーかなと思い、道の先を見ると、確かに遮断されている。一瞬緊張が走る。このボーダーについては、日本語のガイドブックには、何故か位置を記したものはない。ただ、一言「レドラ・パレス」から越えることができるとだけ書いたものが、知る限りでは一つあるだけである。ロンリー・プラネットという英語のガイド・ブック(オーストラ1リア発行? 日本語の情報で物足りないときは、これにいつもお世語になっている。これの「キプロス」版は、南北とも1冊に収められている。早く、日本でも、このようなコンセプトのもの出ないだろうかな?)には、位置が地図で記されているが。これとて、ボーダーは「レドラ・パレス」となっているから、てっきりホテル状の立派な建物が立っているのかと思っていたら、先 程のごく小さな建物だけである。その建物には、部屋が2つだけ。最初の1つは、単なる詰め所。2つ目に、係官が1人。デスクを前にノートを広げている。そこで、パスポートを差し出せば、いい。名前と、パスポート・ナンバーなどを控えらた後は、簡単な質問。聞かれたのは、泊まっているホテル、部屋番号だけであった。2日連続越えたとき、「咋日も、越えたな」と言われたので、「北側を回るのに、咋日は、時間がなかったよ」というやりとりをしたのと、3回目に越えるときに、北へ行くのは、カジノをするためかなどと聞かれたくらいで、たいした質問は受けなかった。あとは、毎回夕方の5時までに戻ってくるようにと、念を押されるだけであった。ここのやりとりは、英 語でOKである。また、ここを越えるに当って、税金の徴収はない。書くのが遅れたが、このボーダー、朝の8時から昼の1時までの間に、南を出ることができ、夕方の5時までに戻って来なければならないのである。2つ目の部屋での手続きが終われば、あとはグリーンラインの中に入っていけばよい。入るとすぐに、左側に立派なビルがある。どうやら、ここが、目印の「レドラ・パレス」のようである。一番上には、国連の旗がひらめいており、前には、銃を構えた国連軍の兵士が1人立っているだけである。その建物を通り過ぎ、緩やかな坂を下りながら、僅かながら右にカープすると、「北キプロスは永遠なり」の英語の看板と、ケマル・アタチュルクの大きな肖像画が掲げられた建 物が目に入ってくる。ここが、北側のボーダーである。ここまで、時間にして3分ほどである。トルコの慣習として、国境係官はボリスが当るので、まず、ボリスによるパスポート・チェックを受ける。次いで、その建物の2階に行くように求められ、そこでヴィザ申請を行なう。書く内容は、いろんな国で入国に当って書くことを求められるEDカードと同じだと考えてもらえれば、それで十分だろう。混んでさえいなくて、そこの係のおばさんが不公平な扱いをしなければ、さしたる時間もかからないだろう。また、その横には北キプロスの地図などが置かれているので、必要なものだけもらっていこう。これで、手続き完了である。ここでも、税金の徴収はなかった。もう、目の前から 北キプロス市民の生活の場が始まっている。いや、このボーダー内にも、市民の家があるということである。道なりに進むと、まもなく大通りに出る。そこが、レフコシャの城壁の北側を走る幹線道路であり、その道を右に折れると、ものの2〜3分で、レフコシャの北側の入口にたどり着けるのである。僕は、その近くのロカンタで夕方食事をしてから、南側に毎回戻っていたが、ロカンタを出てから、南側のレフコシャ市内に戻るまでの時間を、30分と設定していた。それだけの時間があれば、ゆっくり先程の道筋の逆を歩いて、戻ることができるのである。戻るときは、いたって簡単。北側ボーダーで、ヴィザとなっている紙切れ1枚を返せば、北側の手続きはおしまい。南側に戻ってくると、待ち構えている係官に、名前を告げればおしまいである。僕が、ここを越えたときは、キプロス問題が緊張を迎えている時期ではなかったし、またAB加盟を控えているトルコ、及びキプロスが余計なことなどやりっこない時期だったので、こういうふうだったのかもしれないが、市街戦の生々しい状態(そのままの状態が市街地のど真ん中に残っている)が、そのままのグリーンラインの様子を見た者にとっては、正直言って、あまりにもあっけないボーダー越えであったことも、事実である。





【北キプロス編】E南北自由往来

(写真)
天蓋風アーケードWalled City検問所検問所前警告板検問所前メインストリート検問所前ドヴィズ@
検問所前ドヴィズA検問所前ソカクレフコシャの壁北から南を見る@北から南を見るA北から南を見るB

 レフコシャの南北往来の自由化ができるようになって、初めて、2010年の夏に、当のレフコシャに入った。と言っても、我々のようなものに対してではなく、キプロス在住の人を対象に行われているものだが。厳戒のレフコシャに入ってから、約15年が経っていた。レフコシャの南側に入ってもいるので、その南側とも比較できる、そういった感性を持ちながらのレフコシャ再訪であった。レドラ・パレスの傍らを通り、南北を往来する道は健在で、北側の入口まで行ってみたが、これは、何ら変わらずといった光景。確かに、訪れたのが夕刻であったたため、南から来たであろう外国人観光客が南へ帰って行く光景に遭遇できた。また、これを、上から眺めることのできる公園にも行ってみた。南から北へ入るとき、頭の上からトルコ語で喋る声が聞こえて、ぎょっとした公園である。南側から言うと、レドラパレスに通じる道に入ると、右上を見上げると、トルコ側の統治地が出っぱっており、それこそ声を交わせる距離でニアミス状態なのだ。このポイントは、南側からすると、ものの7〜8分も歩くと、中心街も中心街に至るポイントだ。南北を往来する道は、かつてはここだけだったのだが、今回、それだけじゃないゲートができていることを発見したのだ。
 レフコシャの旧市街に入る。ギルネ行きのドルムシュに乗ることのできる旧市街の一番の入口から伸びる中央通り。やがて、右側に、この町一番のデラックスなホテルに出会う。最初に、この町に入ったときとは変わらぬ威容。あのときは、この街角に重そうな銃を構えた兵士が立っていたところだ。そのポイントから南に向かって、若干右斜め前方向に歩き出す。10年以上前の記憶を辿りながらというより、むしろ体が自然とその方向に向いていく。ところが、いくら10年を経ているとはいえ、おかしいのだ。体が持っている距離感と合わないのだ。もうぼちぼち行き止まり、即ち、グリーンラインに遭遇してしまってもいい頃合いなのに、道は続いているのだ。訝しがっていると、今度は、行き止まりや、使い手のいなくなった建物ではなく、今度は、逆に開けてくる。ますます、おかしい。店の連なるソカク、小さな広場には、新しめの天蓋風のアーケードまである。目に着くのは、ドヴィズの表示。おかしいことだらけなのだ。すると、見かけない地点に出てしまった。特段、広場があるというわけではないのだが、そこには、路上に出されたテーブルに、ポリスが二人腰掛けながら座っている。その向こうには、検問所と思える、でも、そんなたいそうなものではなく、普段着を着た人たちが、かつての電話ボックスのような建物の前で立ち止まっては、すぐに歩き出している。そして、そこへ導くようにとの導線が設えられてあるという具合だ。それが二方向、どう見ても検問所だ。そこで、目の前に腰掛けているポリスに聞いてみた。「ここを通って、ギリシャ人統治地区へ行けるのか?」。南へ行くということを、トルコ側で尋ねると、こういった回りくどい言い方になってしまうが、要するに南へ行けるかということだ。すると、「行ける」「行きたいんか?」と言う、こちらは、逆に「えっ?」と詰まってしまう。「行けるんか?」と言う、いや、「行ってこい」とまで言う。「ギリシア側に行くと、トラブっちゃうんでしょ?」「いや、大丈夫」と言われても、これは行けたもんじゃありません。深くは考えないで言ってるんでしょうが、まあ、トルコ側は、そう言うだろうというのが、予備知識的に入っているので、試すことすら止めておきましたが、そんなに言ってくれるなら、検問所を指さして、「写真、撮っていい?」と聞くと、「どうぞどうぞ」というので撮った写真を載せておきます。それだけではなく、一人のポリスが、もう一人のポリスに、「お前も一緒に撮ってやる」と言い、黄紺とのツーショット写真まで撮ってくれました。そうやって考えると、その検問所に続くソカクは、南から来る人たちを対象にしたお店通りだったのです。ですから、ドヴィズが並んでいるは、ロカンタには、トルコ・リラ表示と並んで、EURO表示が出ているという具合で、そんなに広いわけではないのでが、観光客を迎えるという風情の地区が出現していたのでした。
 では、南から来た人たちにとっては、このトルコ側のレフコシャは、どのように写るのだろうかと考えてみると、経済的には、完全に南から立ち遅れた北と写るのは、百も承知とばかりに、ノスタルジックなレフコシャを演出しようとしていると看ました。確かに、歴史的遺産が豊富なことを活用して、観光都市として生きようとしている姿が看えてきました。レフコシャ(北)の各地に、新たに作られたと見える「道路標識」、それも、英語表示の詳しめのものが、ポイントポイントに立っていました。その一番上に、「Walled City Lefkosa」というコピーが踊っていました。「城壁の残っている」というよりか、「壁により遮られた」と読んだ方が、よりレフコシャを表していると思えるこのコピー、今や、「分断」そのものが、貴重な観光資源と化している看ました。
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