中東の地図を、一つ開げてもらいたい。トルコという国は、特に東方において、いろ
いろな国と、国境を接している。その中で、わずかながらではあるが、イランとも接し
ているのに気付くであろう。その南は、もはやイラクであるから、トルコから東方へ抜
けるには、ここを通遺するルートというのが、とても大切なのである。残念ながら、僕
は、ここをまだ通ったことがない。ここを抜けるためには、どうしても通過せねばなら
ない都市、即ち、トルコ側ボーダーのドゥパヤジットまで、パスで3時間の都市・カルス
までしか行ったことがないのである。ところが、ここを抜けてトルコに入ってきた日本
人と会ったことが、2度ある。今回は、その人たちについて書いてみよう。
一人は、トルコ東北部山中の素敵な町・アルトヴィンで出会い、その後トラブゾン近
郊のスメラ修道院で、もう一度出会うこととなる女子学生である。イスタンブールなど
では、日本人らしき人たちに出会っても、決して声を掛けないし、たとえ掛けられても
生返事しかしない僕だが、さすがアルトヴィンなどというマニアックな町で会うと、素
直に話してしまう。しかし、このときは泊まっているホテル名を聞いたが、結局どこか
分からずじまいだったのである。そのときは、絶対彼女は、アルトヴィンなんて町に来
るのだから、トルコ・フリークに違いないと思い、いろいろと教えてもらいたかったの
である。2度目に会ったとき、こちらは男2人女2人の4人違れだったのであるが、彼女
は、何と第一声、「日本人の女性を見るのは、3ヶ月ぷりだわ」と言ったのである。びっ
くりしてその意味を尋ねる我々に語ってくれたのは、半年前に大学を休学して、日本を
出発し、まずバンコクからネパールに飛び、その後は、陸路でインド、パキスタン、そ
してイランに入り、そこでトルクメニスタンやウズベキスタンなどの中央アジア諸国の
ヴィザを取得した後、それらの国々に入り、もう一度イランに戻った後、トルコに抜け
てきたというのである。彼女の場合、英語の他にロシア語ができるという強みがあった
にせよ、その元気さに圧倒されてしまったのである。イランのイスファハンが素晴らし
かった。イランからトルコに入ると、都会に入ったなと感じるとか言っていた彼女は、
その後、シリアやヨルダンなど中東諸国を回った後は、アフリカヘ入り、残りの半年を
過ごすということだった。去り際に彼女が言った「大学を1年休学して、ほんとに良かっ
たと思います」の言葉か、実にさわやかさをもって響き、とても印象的だった。
もう一人は、北キプロスのギルネ港で呼び止められた同業者である。そのときは、彼
は、トルコから北キプロスに立ち寄った後、海路・陸路を伝いながら、最後はバリに入
るという旅行をしている途中であったのであるが、彼は、かつて某大学の探検部に在籍
しており、その頃、インドのカルカッタ・イン、ギリシアのアテネ・アウトの旅行をし
たことがあるというのである。ボスポラス海峡をどのように渡ったかは知らないが、他
は全て陸路での移動だというのである。時期はイラン革命の直後で、いや直後であった
ために、逆に国内の混乱もあり、その後厳しく制限されることになる入国もたやすくで
き、結果的にイランからトルコに入ることとなるのである。彼のその時の印象を記した
言葉は、「トルコに入ると、緑がある」というものであった。もちろんのこと、イラン
は、彼が言うように、どこでもかしこも岩ばかりで、灰色の世界かというと、そうでは
ないが、イランからトルコヘ抜けるルートが、そのような光景なのだろう。確かに、ト
ルコの木のない風景が、即ち岩だけのものかというと、そこまでいくにも段階があるよ
うである。草の世界があり、それも針金のような草が生えている世界へと変わりと言っ
ても、確かに緑があることはあるのである。それともう一つ彼の言っていたこと、それ
は、「トルコに入ってから、雲を見るようになった」というものである。まあ、これは
トルコをいつ旅行するかにもよるが、夏場など、トルコでもほとんど見ない方だから、
それ以上となると、大変な乾燥地帯と言うことができよう。
この2人は、正に猿岩石の世界である。もちろんヒッチハイクはしてないが、典型的
なバックパッカーという人種である。あの猿岩石は、イランからトルコヘの入国をどう
したかと言うと、例のやらせ騒動になったのが、実は、ここの問題なのである。イラン
・トルコ国境は治安が悪いという理由で、彼らは、テヘランからアンカラヘと飛んでし
まったのである。確かに、日本の外務省が出している各国情報によると、ドゥパヤジッ
トや、僕の入ったカルスも、要注意地城に名を連ねているが、その時折の情勢を、自分
なりに分析し把握した上での判断が、このような場合は求められよう。その上で若干の
大胆さを、君が備えていれば、十分に緊張した旅を楽しむことができるだろう。但し、
情報を持たないという無茶は禁物であると同時に、安全を金で買う愚行は、厳に慎まね
ぱならないということを、心に銘記しておいてもらいたい。
(注)「猿岩石」とは、懐かしい名前を書いているが、その頃に書いたものである。
僕は、とてもカルスという町を気に入っており、2年に1度訪れている。もはや
そこはコーカサスの雰囲気たっぷりだからである。そして、2000年の夏、ようや
くドウバヤジットに入った。あゆさんの生出演の約2ヶ月後のことである。そこ
は、完全にクルド語の支配する町で、クルド語混じりのトルコ語を話されて、目
を白黒させることとなる。
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