僕は、初めてのトルコ旅行をした直後に、トルコ語を勉強し出した。僕は、しばしば
トルコ語をやり出したきっかけを、このように言うが、では、あのとき何が気に入った
のかと言えば、それ以後の関心に比ぶれば、あまりにも小さいため、今や、本当にあれ
がきっかけだったのか、疑問に感じてしまう程である。しかし、今でも、人に聞かれる
と、「トルコというところは、いろんなものが見れるということを、知ったからです。
古代ギリシア・ローマの遺跡もあるし、ビザンツの名残も、そやから当然東方のキリス
ト教会跡からイスラムまで、何でもありで、それが一つの国で見れるというのが、魅力
なんです」と答えるし、今後もこのように答え続けるであろうと思う。今となっては誰
しもが気軽に行けるカッパドキアーつを取っても、僕が、学生時代、東方の教会遺跡の
一つとして知ったときなど、こんな所は、生涯行けるものではないと思っていた所であ
る。それが、初めてのトルコ旅行で、簡単に行けたのである。そりゃ、感激なんてもの
じゃなかった。イスタンブールのアヤソフィアも、エフェスの古代遺跡もそうだった。
だから、僕がきっかけとして言っていることは、まちがいではない。だが、何か弱いと
思ってしまう程、言葉を習得していくにつれ知ったトルコは、おもしろいのである。
トルコ語を一つの言語として見るならば、単語の配列は、日本語と同じだし、文法は
簡単だし、母音が少ないから発音は難しくないし、おまけにアルファベットを使ってく
れるしと、習得し易さが列挙される。それに引換え、お隣のアラビア語は、文字は違う
は、文法は難レいはで、大変とよく言われる。確かにその通りだが、僕なりに言ってみ
ると、単語の配列が同じだというのは、実は、日本語がネイティヴな者にとっては、逆
に小難しいのだから不思議だ。というのも、我々の頭の中が、外国語と言えば英語を連
想し、外国語イコール日本語と同じ語順配列となっていないからである。だから慣れる
まで大変。慣れると簡単ってやつだ。これと同じことが言えるのが、トルコ語の最も基
本的な特敏である「母音調和」にも言える。これは、一つの単語の中で、母音が一定の
ルールに従って調和をしているというものである。語尾変化や接尾辞、疑問文を作るた
めにもと、様々な場面で、これの拘束を受けてしまう。しかし、これも慣れれば、自分
の口が、ルール通りに動いていくが、これをきっちりやっておかないと、無茶苦茶にな
ってしまう。とまあ、否定的なことばかり書いたが、逆に僕が最も気に入っているとい
うのは、20世紀に入ってから文法の整理をした影響がどうかは、正確には把握しかねる
が、文法が、非常に合理的にできているのである。おもしろい言い回しとか、不思議な
それとかはたくさんあるが、英語のように破格の言い方が少ないので、理屈で押さえて
いくと、意味がとれていくのである。これは、有り難い。
さて、トルコを歩いていると、言葉を通じて、いろいろなことが分かってくる。次に
それを紹介しよう。昨今は、旅行ブームで、トラベル会話の小本も出版されているが、
その中に必ず出てくるのが、簡単な挨拶である。「こんにちわ」が「メルハバ」で、「
さようなら」が「アラーハウスマルラドゥック」と出ている。僕が、初めてトルコ個人
旅行したとき、「メルハバ」はともかく、「アラーハウスマルラドゥック」の方は、ト
ルコ人の反応がおかしいのである。そのように言っても、無反応なのである。その頃は、
こちらが、その言葉を使ったら、トルコ人は、黙ってうなずくのが、別れの挨拶かと思
っていた。それとも、こちらが言う前に、トルコ人が言ってくれる「ギュレ・ギュレ」
という送る方が言う「さようなら」だけが、別れの言い方かと思っていた。それから半
年ほどして、友人が、トルコへ語学研修に行ってしまった。寮に入って、トルコ・ライ
フを満喫するその友人に、日本から電話をしたところ、その友人がいなかったので、「
2.3時間したら改めて電話するってことを、言っておいて下さい」と言って、電話を
切ろうとすると、なんと、「イーイ・アクシャムラール」と言って、向こうは切ってし
まったではないか。その言葉は、「こんばんわ」としては習ったが、「さようなら」と
いっ意味では知らなかったものである。驚いて友人からその後電話があったとき尋ねて
みると、それが、ノーマルだということで、「アラーハウスマルラデゥック」なんて、
ないないということだった。「こんにちは」を意味する「イーイ・ギュンレール」も、
昼間なら「さよなら」として使うということだった。おまけに「ハデッ。バイ・バイ」
なんていうのも、若者の問では流行っているということだった。「アラーハウスマルラ
ドゥック」というのは、要するに「アラーに後のことはお願いした」というのが、本来
の意味なので、要するに熱心なイスラム教徒、しかも田舎の方でしか使わないという風
に考えておけぱよいのである。だから、それを知ってから、「アラーハウスマルラドゥ
ック」を使わないと、向こうも機嫌良く返答してくれるようになきのである。そうする
とますます、日本人らしき者が、即ち、非イスラム教徒が、「アラーハウスマルラドゥ
ック」を使うことの滑稽さが明確になり、恥ずかしさを感じ入ってしまったのである。
田舎をドルムシュなどで回っているとき、「アラーハウスマルラドゥック」を聞くこと
が時々あるが、その時など、今や、頭より身体が真っ先に反応してしまう。思わず振り
返って、どんな入が、その「アラーハウスマルラデゥック」を使っているのかを、見入
ってしまうのである。その中に女性がいれば、全てスカーフで髪を隠している人である
ことは、言うまでもない。
トルコ語で、誰かと話しをするとき、相手に対して、たとえ1人であっても、2人称
の複数形を使うと、丁寧な言い方になるというルールがある。普通に2人称の単数形を
使うと、ぞんざいで、場合によっては礼を失すると習う。これは、まさにドイツ語と同
じである。ところが、まあ、トルコを旅行していて、街で会う人たちと話すときは、い
きなり、2人称の単数で始まってしまう。親しくなっていなくとも、いきなりなのであ
る。だから、ついつい2人称の単数で話す癖が付いて帰ってきて、日本に留学中のトル
コ人と話すとき、同じように話すと、顔をしかめられてしまう。そんな言いしないで下
さいよと、言われてしまうのである。トルコという国、残念ながら非常に社会的格差が
大きい国である。日本にまで留学をするトルコ人は、超工リー卜だし、従って社会的上
層部に位置する人たちなのである。そこらで出会えるトルコ人とわけが違うのである。
それが、見事に言葉に現れてしまうのである。だからトルコを歩いていて、道を何気な
く聞いた人に、2人称の複数形で答えられると、僕の礼の言い方も変わってしまうので
ある。「ありがとう」に相当する言葉もいろいろあるが、最も丁寧な言い方で答えてし
まうのである。「テシェキュル・エデリム」と。それを短縮した「テシェキュレル」な
んて、感覚的に使えたものじゃない。同時に、そのように答えるとき、無意識に背筋が
少し伸びていることに気付くのである。まあ。2.3の例だが、言葉を多少なりとも覚
えて旅をすると、上っ面ではない、何かその国の中へ入り込んだ気になることができる
というものなのである。
(注)96年の夏、トルコから帰って書いたものである。初めて、自分が、知らぬ間
に背筋がに伸びてるって自覚したのを、何故かよく覚えている。それは、寒い寒
いエスキシェヒールで道を尋ねたときである。あの寒さがあったのでか、私の頭
にインプットされている。
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