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【トルコ編】[25]ラマザン(断食月)体験

 ラマザン(断食月)というのは、イスラム暦第9月で、この月は、敬虔なイスラム教徒は、明け方にサフルと呼ばれる食事を摂り、それ以後は、一切の飲食をせず、夕刻のイフタルと呼ばれる食事まで、断食を守るのである。それが、約1ヶ月続き、ラマザン明けには、シェケル・バイラムという、お祝いの祭り、休暇が入る。なお、イスラム暦は、太陽暦と異なるので、毎年少しずつ前にずれていき、従って、年によって、1日の内、断食をする時間が異なるのである。よく言われることだが、冬にラマザンが来れば、時間は短くて済むが、夏に来ると時間は長いどころか、喉の渇きが耐え難い苦痛をともなうと聞く。まあ、それはそうだろう。東の方へ行けば、40度の世界だから、そうなる。だからこそ、その期間を終えた後に来るバイラム(祭典)は、より待ち遠しいものとなるはずだ。サフルもイフタルも、日によって時刻が異なる。だから、サフルの場合は、夜明けで、皆が寝入っているので、それを起こさないと、下手をすれば、夕刻まで飲まず食わずになってしまうので、町内で起こして回る人がいるということだ。黄紺も、確かサムスンで、午前3時頃、遠くで「どんどん」と鳴る太鼓の音を聞いたような記憶がある。なにせ、こんな時間だから、寝入っているところに聞いたので、そのように聞こえたのだろう。また、そのサムスンの東、バスで1時間ほどの所にあるウニエという小さな町では、明け方、大砲をぶっ放していた。これは、正直びっくりした。そのようなところもあると聞いたことがあったので、納得はしたが、それでも、最初の1発目は、それも寝入っていたので、何事が起こったのかしらんと、頭の中が混乱をしたのを憶えている。一方、イフタルの時間は、これは、TVを付けていれば分かる。その時間帯になれば、TVは、通常の放送から、雰囲気ががらりと変わる。ムスリム色の強い放送局は、イフタルの時間のだいぶと前から、コーランの朗誦を放映していたり、イスラムの教えについての講釈を流している。そうでない局でも、もちろん日本のNHKに相当する公共放送局のTRTも、むしろ率先してという感じで、しめやかな音楽を流し、画面には鳥が飛び立つ風景や、山や河という自然の風景を流している。そして、時刻が来ると、刻々と「何時何分」に「どの都市」でイフタルの時間になったかを流していく。日によって、場所によって、イフタルの時間が違うのである。更に複雑なのは、東から順番とは限らないのである。大体東の方からかなと思ってTV画面を見ていたが、そうではない。アンカラがイフタルに入っているのに、カイセリは未だというようなことが起こっているのである。
 さて、ここからラマザンの時の私的な経験を書きとどめておくことにしよう。自分の記憶に間違いがなければ、ラマザンの時にトルコにいたことが、3回ある。しかし、その内の2回は、イスタンブールやイズミールに滞在しているときに、ラマザンに入った。そのときのラマザンの実感というのは、ほとんどなかったと記憶する。ただ2つのことだけが、いつもの様子と異なることには気がついた。その1つは、エミノニュのイスケレ(船着き場)前に大きなテントが張られ、そのテントに、「コンヤル」という有名なレストラン名が書き込まれていた。トプカプ宮殿にあるあのレストランで、シルケジにも店を構えている。だから、この場所かと納得をしていたのだが、要するにこのテントは、イフタルを人々に振る舞うための仮設テントなのである。これは、イスラムの慣習としてある「喜捨」の実践であろう。豊かな者が貧しい者に対して施しをするという慣習・教え、それをイフタルで実践しているのである。もう1つも同じようなことであるが、タキシムからイスティクラル通りを少し入ってすぐ左に並ぶロカンタ(食堂)の1つの前に、夕刻に男どもが列をなして並んでいたことがある。これも、イフタルを振る舞っていたのだろう。だから、イフタルの時間の前になると人の列ができていたのだろう。実は、最初の2回は、ラマザン経験というのは、たったこの2つの風景だけなのである。町は、普段と変わらない賑わいを見せているし、レストラン、ロカンタの類も、いつもと変わらない姿でオープンしているし、そこでは普段と変わらず人が入っているし、見た目には、単に短期滞在者にとっては、何ら変わったとは映らなかった。だから、イスタンブールやイズミールで、ラマザン経験をすることは、ホント難しい。人から、「地方へ行くと大変らしいぞ」とか、「食いっぱぐれるぞ」とか聞いたことはあったが、こういった経験を、イスタンブールなんかでした者には、全く実感できていなかった。正直言って、あすこまで違うとは、、、。もう絶句状態、トルコでの、最大のカルチャー・ショック!!  それは、これ以外、ない。
 黄紺は、99年の暮れに、冬の黒海を見ようと、そのあたりを歩き回ったことがあるが、正にそのときが、このラマザン真っ直中だったのです。このあたりの大きな町、サムスンやトラブゾンと、その他の町とは雰囲気は少々違うといえばそうなのだが、でも、基本的な姿は同じと言っていいと思う。まず、町の雰囲気が、いつもの活気があったとしても、その時間帯が短いし、そういう活気が乏しく、何かちょっとお休み中という雰囲気の所もある。1つには、ロカンタがやってない。開いている店が少ないということ、これが、町の雰囲気を変えてしまってるという印象。トラブゾンから、西へ、ドルムシュで1時間40〜50分程行ったところにあるギレスンでのこと。ここは、結構昼間の人の賑わいとか、そんなに変わった感じはしなかったにもかかわらず、変なお店発見。店の表の壁には、「ファースト・フード」と書いてある。この店、表通りに面した窓のカーテンが、上から90%程閉まっている。「あっ、やっぱ、こんな店は、開けてないんだ」と思って、「あれ?」。カーテンの下から10%だけ残っている窓脇に並んでいるテーブルに、きっしり人、人、人。そう、店は開けてるんだけど、外からは見えないようにしている、というわけだったんです。こんなだから、このギレスンで、こんなこともありました。普段2食生活をしている黄紺なのですが、ウニエでは、全く朝ご飯にありつけなかったため、昼にはギレスンでと考えていた。あるロカンタの前に立つ。ちょっと中を伺う。案の定、誰も入っていない。が、念のために、店に入ったところに店の親父がいたので聞いてみると、入れと言う。そして案内されたのが、表から見えない地下の部屋。厨房の横に並べている幾つかのテーブルの1つに座って食べたのは、ほっかほかの食事。ひょっとしたらイフタル用に準備をしていたのかもしれない。
 カスタモヌという、オスマンルの家屋が多く残っている町がある。そこそこの町の規模だが、ここでのラマザン経験を紹介しよう。昼間は、ちょっと休憩気味かなという雰囲気だが、さして特別な日という感じがするわけではない。それが、イフタルの時間の1時間ちょい前から、がらりと雰囲気が変わる。町が急激に動き出すのである。町を滑走する車の数が増える。当然渋滞気味になるので、苛立つ車は、「ピーピー、ビッビー、ビッビー」と喧しくフォンを鳴らす。あちこちから、この音が聞こえてきて、うるさくて仕方ない。そして、普段は見かけたこともない交通整理のお巡りさんまで出てきている。そして、一所懸命に渋滞している車に支持を出している。トルコで、これだけ苛ついた雰囲気に出会ったことのなかった黄紺は、茫然として街角で、この雰囲気を立ちつくして眺めてしまった。やがて、街角から、徐々に車の数、人の数が、潮が引くように減り出す。この喧噪が起こるまでは、店を開けてなかったロカンタが、いつの間にか営業を始めている。更にイフタルの時間が近づいてくると、ロカンタのテーブルに、家族連れなんだろうか、どのテーブルにも、お行儀良くちんと座っている、が、食事はしていない。どのテーブルも、そういった具合。隣のロカンタを見ても、同じ。もう、お分かりですね。先ほどの車の喧噪は、先を競うかのように、イフタルまで家に帰ろうとしていたということであり、その中には、家族で、町のロカンタで、イフタルを摂ろうとしていたんでしょうね。そして、ロカンタでは、イフタルの時間まで食べられないので、いや、その時間が来るのを待ちかまえている人たちで、満杯というわけである。そして、やがてその時間が来る。町には、すっかり人影が消え、立っているのは、黄紺1人という状態となるのでした。このイフタルの時間から、町らしい雰囲気に戻るには、1時間半が必要である。でも、普段なら、まだまだ宵の口という時間なのに、昼間の喧噪には、決して戻らない。町に人は帰ってくるが、賑わいは決して普段のものじゃないのである。これは、黒海沿岸北東部の中心的都市トラブゾンでも、そうだった。このように、賑わいが帰ってくれば、その人たちをアテにする店も再開してくれはするが、イフタルの時間に人影が消え、そしてそのままだった町もある。サムスンから西へ行ったところにあるシノップの経験は、忘れられない。要するに、この町の活動は、イフタルをもってして、1日が終わってしまった。元々小さな町なのだが、たまたまこの町に入ったとき、イフタルの前だったにもかかわらず、街角にピデ屋を見つけ、その足で店に入ったので、完全に食いはぐれたわけではなかったが、そのピデ屋でピデを食ったのが、午後3時頃だったので、当然、夜、お腹がすく。で、困った黄紺が狙いを定めたのが、オトガル。ここのオトガル、小さいのだが、そこにバッカル(雑貨屋)があったので、それに狙いを定めたのである。但し、ここで買えたのは、バスの中でサービスでくれるあの小さなスポンジケーキ、数個。でも、これで大満足。何もなしよりかは、はるかに大助かり、でした。
 先ほど出てきたカスタモヌから温泉街ハヴザへの移動のときのことも忘れがたい。イフタルのことを計算に入れないで、ハヴザは泊まるだけにしておいて、カスタモヌでゆっくり遊んでいこうと考えたのが、事の始まり。確か3時頃のバスに乗ったと記憶する。すると、ハヴザに着くまでに、イフタルの時間を過ぎてしまうのである。これも、今、地図を見ながら確かめたんだが、ボヤバトという小さな町に着く頃に、イフタルの時間を過ぎていた。すると、町に着くやいなや、一斉に乗客が降り、小さなオトガル内の建物に駆け込もうとする。何分間か、それも通常より長い時間止めると言ったように自分には聞こえたので、隣の男に確かめると、イフタルだからとの応え。一部、その時間帯には食べず、黄紺と同様、暇を持て余したかのように、ぶらぶらしていた、要するに断食をしてなかったろうと思われる人たちもいたが、ほとんどの人は、オトガルにあるロカンタに駆け込んだのであった。結局、その町には、ほぼ1時間止まり、ようやく発車したのであった。そんなに止まるのなら、そこで夕ご飯を食べておきゃよかったと思っても、後の祭り。黄紺は、ハヴザに着いてから、今度は、自分自身が食べるために、ロカンタを探すのに一苦労しなければならないのである。小さな町では、イフタル用に作る物は、限られているものだから、店じまいするのが実に早いということを、このときばかりは思い知らされるのであった。
 以上、黄紺のトルコ歩きのなかでも、特異な経験と言える断食月経験。随分とトルコに慣れ、ほとんど空気化しているトルコの雰囲気に、ホントに新局面を、自分的には最大のカルチャー・ショックと思える経験が、これだったのである。やっぱり、食い物が絡んでくると、きついし、忘れられなく、インパクトが強い。でも、怖いもの見たさの感覚で、いずれかは、この断食経験を、南東部で経験してみたいと、黄紺は思ってるのでありまする。

【注】ラマザン経験をしてから、1年9ヶ月してから書いているので、記憶に不正確なところがあるかもしれないが、自分としては、正確さをそんなには欠いていないと思っている。それ程、インパクトが強い経験だったということと、ご理解下さい。これだと、未経験のクルバン・バイラムに出会うと、舞い上がってしまいそう。





【トルコ編】[26]コス島(ギリシャ領)に渡る

 トルコにいたときボドルムから、ギリシャ領のコス島に渡ったが、そのときに買ったCDを聴きながら、これを書いている。なんか、コス島での滞在が、聴いていると蘇ってくる。夏は毎日、それもノーマルなフェリーだけではなく、高速船も出ているという。冬は、週に3便。宣伝の看板などを見ていると、高速船だと、僅か20分で着くという。そう言えば、コス島からの帰途、このくらいの時間なら、いつまでコス島が見えているか、ずっと見ていたら、最後の港に入る直前まで見えていた。それも、アングルの問題で、コス島方向に、島影を遮る物が入り込むためであり、それさえなければ、パスポート・コントロール前の船着き場からさえ、見通せる距離である。ボドルムでコス島へ渡る手続きは簡単。街中のツーリストも扱ってるようだが、黄紺の場合は、出発の朝、ボドルム城入り口の前の道を、更に海側に進んでいったらある、フェリー業者に、直接言って申し込んだ。前日確認に行ったら、そうしてくれと言われたので、そうしたまでで、その当日、指定された時間に行くと、パスポートを示しチケットを購入し、時間が来れば、パスポート・コントロールが開き、後は、船に乗るだけであった。黄紺が乗った日は、申し込みのあった人が、出発時間が20分も過ぎても現れなかったが、船は待っていた。どうやら来たようなので、船長に、「来てないやつ、来たの?」「信じられない、よ」なんて声を掛けたら、船長も、思わず苦笑してました。どこにも、だめなやつは、いるもので、それを暖かく見守る人も、いるということ、です。
 ところで、我々の頭の中というか、少しはトルコにかんだ者なら、トルコ・ギリシャ関係というのは、随分と興味をそそられる問題である。正直言って、恥ずかしい話だが、トルコに係わるまで、トルコ共和国成立時に、トルコ国内在住のギリシャ人と、ギリシャ国内のトルコ人の、いわゆる「住民交換」のことは知らなかった。まず、そんなことを思いつくこと自体、黄紺の想像を超えるものだし、また、それを実際に行ったというのだから、呆気にとられるしかなかった。それが、トルコ語教室で、初めて、この話を聞かされたときに感じた感想だ。今から考えると、何も知らないで、教室によく通っていたものだと思う。でも、そのときの先生方は、この業界の専門の方々なので、これらのことを当たり前のように言われたのが、黄紺にとっては羨ましく、憧れたのだった。もちろんキプロスのことは、トルコに係わる前から、そこそこの知識を持ち合わせていた。だって、70年代のキプロス紛争ばかりか、60年代の独立時のことも、TVの報道で、黄紺の記憶には留まっていた。だから、こちらでの、ギリシャ系住民とトルコ系住民の対立というのは、黄紺には、しっくりきたが、本家本元同士の根本が、今から考えると、全く分かっていなかったということだ。
 マルマラ海にあるブユック・アダに行ってみたくなり、無礼者氏と一緒にトルコに行ったとき、2人して行った。トルコ風じゃない光景に出会え、TVや写真で見るギリシャ風のそれに、興味がそそられた。でも、その後、エーゲ海沿いを歩いていて、例えば、イズミールのカルシュヤカにある、モニュメントや、アイワルックで見かけたギリシャ教会の残滓などに出会うことにより、トルコ・ギリシャ関係にリアリティが、着いてきたような気がする。遅いのかもしれないが。だから、1度、前々から、トルコ沿岸部にへばりつくようにあるギリシャ領の島々に行ってみたかった。最近、トルコに行けば、東の方ばかり目指している黄紺にとって、なかなかチャンスがなかったが、この冬は、1度はと思っていたマルマリス、ボドルム。ずっと1度はと思うのなら、気に入ろうが気に入らなかろうが、行こうと思い、更に、ボドルムに行くのなら、パパンドリュー外相とジェム外相が、2人して越えたコス島とボドルム間を越えようとしたのだった。
 さて、ボドルムを出発をして1時間余、コス島に着く。同じ港町とはいえ、ボドルムとは明らかに異なった光景が目に飛び込んでくる。同じ、港の風景でも、何か整っているのである。これは、街中に入っても思ったのだが、整然とした落ち着きのようなものを感じる。コスに比べれば、いくらボドルムとは言え、猥雑さが頭をかすめる。そして、色合いが違う。クリーム色を初めとした輝きを感じさせてくれる色合いが支配している。でも派手ではない。そんななかに、教会があり、教会の鐘が鳴っている、もうそれだけで、ここはギリシャだ。圧倒的に、ギリシャ本土から離れ、限りなくトルコ本土に近いにも拘わらず。でも、立派にジャーミーが残ってることから、やはり、かつてのトルコの支配跡を確認せざるを得ない。このような雰囲気、光景に満足する以上に、黄紺のハートを射止めたのが、乗ってきた船の関係者と、ギリシャ側の当局者、そして船が着いたことにより集まってきた何人かのギリシャ人たちである。どうやら、漏れ聞こえている言葉は、トルコ語ではない。英語なら英語と分かるから、ギリシャ語、らしい。その交流は、単なる国境を往来する者と、それを待ち受ける者とのそれではない。実に熱いもの、とっても人としての絆のようなものを感じさせられた。特に帰りの船が出る間際の交流は、見る黄紺の胸を熱くさせた。送る者は、敢えてトルコ語を使ってる。大状況としてのトルコ・ギリシャ関係が分かってきている黄紺だからか、余計にそう感じたのかもしれませんが、、、、。
 今聴いているCDを買ったときのこと、これは忘れられない思い出だ。明日から、ユーロになるというギリシャで、最後のドラクマが手に入らない。平日なのに、両替屋は休んでいるは、銀行は開いていても、両替お断りだわで、ほとほと困った。もう食べることは、諦めた。黄紺は、普段から2食生活なので、逆に昼食べると、お腹の調子を壊すぞと自分を納得させたが、どうしても諦められなかったのが、ギリシャ・ポップスのCD。これも楽しみにしてきたのにと思うと、我慢できなくなって、CD屋に飛び込み、頼み込んだのでした。そして、ドルで買い物させてもらったのでした。いい主人でした。最後に、「新年の思い出に」とまで言ってくれた。そして、申し訳なさそうに「お釣りは、ドラクマで、いいかい?」と言い、黄紺にドラクマを渡してくれたのでした。これが、黄紺の最初にして最後に手にしたドラクマです。それで、パンを買い、またこのパンが、バターと卵がたっぷり入った、とってもとっても、も一つとっても美味しいパンでした。トルコのパンとは、全く違う美味しさに、しびれました。そして、そのとき1枚だけお釣りのドラクマ硬貨をもらいました。その硬貨が、今、黄紺の手にあります。もう使えないドラクマ硬貨、そして決して使いたくない、黄紺のとっておきのドラクマ硬貨です。
 キプロスで、南から北へ越えた1年前の感慨とは、またひと味違った感慨があります。それはきっと、CD屋の主人と国境に拘わる人々同士の交流にあるのだと思います。何やら、この辺の雰囲気を追いかけてみたい気持ちが、沸々と湧いてきています。さて、この先、どう振る舞いましょうか。自分の課題が、1つ増えた感じがしています。

(これは、「GUNLUK」に2002年1月20日分として書いたものに、加筆修正したものです・・・黄紺) [25]へ戻る





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