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【トルコ編】[27]大雪のイスタンブール事情

雪のガラタ橋@ 雪のガラタ橋A  2002年の新年、黄紺は、またしてもイスタンブールに入っていた。アナトリア西部を周り、1月3日の昼に、イズミールからイスタンブールに飛んだ。12月の後半に、トルコ入りする以前から、この冬は、異常寒波の襲来で、随分と寒いらしいとは分かっていた。確かに、イスタンブール入りして、すぐにハレムからバスに飛び乗り、キュタフヤまで移動したのだが、既にイスタンブールにいる間から、道端に雪がかたしてあるのを目撃していた。途中のビレジックあたりになると、その雪の量が、どんどん増え、積雪がただならぬものだと認識した。黄紺が、このビレジックを通るときは、ほんといつもこうだと、でも、一方で、その真っ只中でラッキーと、心の中では、半分喜んでいた。
 イスタンブールに戻ろう。3日にイスタンブールに着いたときは、別段何も感じなかった。寒いことは寒かったが、前日、イズミール界隈で、珍しく雪がちらついただけに、イズミールで、そんなだから、イスタンブールで寒いのは当然だったからである。その日は、カドゥキョイ、ベシクタシュとぶらつき、いつものようにドルムシュで、タキシムに上がった。そして、これも予定通り、アタテュルク文化センター(AKM)で、バレエ「胡桃割り人形」を見て、タキシムから、ドルムシュに乗り、カドゥキョイまでダイレクトに帰った。20分そこそこで帰ったので、えらく飛ばしたなぁという印象が残っている。そして、問題の翌朝である。7時頃に目が覚め、7時半からのホテルでの朝食を食べに行くところまでは、何ら問題はなかった。ただ、窓から見た空が曇っていたので、あーあ、また、1日おきに曇るんだと、これまた、いつものように感じたのだった。そして、8時頃、部屋に戻り、窓の外を見ると、雪がちらちら来だしていた。この日の大雪の始まりは、これだった。それまで、全く降ってはいないし、もちろん雪も残っていなかった。だが、ぼーっと、TVで、KRAL-TVのクリップを見ながら、外を見ていると、雪の振り方が、どんどんきつくなっていく。黄紺の常宿は、カドゥキョイのあるソカック(脇道)に面しており、そのソカックは、ペンディックかどこかからカドゥキョイの来るドルムシュの通り道になっている。だから、うるさくはないのだが、ホテルの前を通る車の音が聞こえてくるのだが、その音が、どんどん少なくなっていく。これは、後で分かったことだが、イスタンブールで、この大雪は、15年ぶりのことで、普段、冬でも、イスタンブールっ子は、チェーンを積んでいないようで、たちまち危なくなって、運転を控えた結果のようなのである。それ程、短時間で、雪が降り積もっていった。TVを一般の番組に変える。イスタンブールの雪については、その日は、映像を交えて伝えていた。大雪の積もった幹線道路で、車が立ち往生している姿が映し出されるは、イスタンブールの学校は、休校措置を執ったと報じている。窓の外の雪は、激しさを増している。
 午前10時頃、黄紺は、ホテルの外に出てみた。翌日、黄紺は、昼の12時頃に、帰国するために、シンガポールに向けて飛ぶ予定だったのだ。空港は閉鎖ではなく、雪の降る様子を眺めてるようなことを、TVが言っていたので、空港が機能していても、空港へ行けなければ話にならないと思って、ヨーロッパ側の道路事情確認のために、アタキョイあたりまで行けるのなら行ってみようと考えたのである。外に出ると、ますます大雪の様相を見せており、休校となったため、家路を急ぐ中高生で、カドゥキョイのイスケレ(船着き場)あたりは溢れかえっていた。車はそこそこ動いており、ドルムシュが、数珠繋ぎになっていたので、何気なく行き先を見てみると、なんと全てが、ボスタンジュ行きだった。このあたりから、黄紺は、少しは尋常ではない雰囲気に気が付きだしたが、エミノニュに渡ろうとしてイスケレへ行って、起こってる事態に初めて気づかされたのだった。ヴァプル(船)が、全部止まっていたのだ。道路はダメかもしれないが、船までが止まるとは。これは、大変なショックだった。要するに、空港が機能していても、空港へ行くことができない、それが、起こりかけているのだ。途方にくれる黄紺。イスケレ前にあるバス乗り場の様子から、バスが潤沢に動いてないのは、既に分かっていたが、イスケレの職員に聞いてみる。「タキシムに行く方法はあるの?」「タクシーに乗れ」の答。と言っても、タクシーの運転手が、全てヨーロッパ側に渡る人ばかりではないので、黄紺は一計を案じ、カドゥキョイからシシリーやタキシム行きのドルムシュが出ている乗り場に行ってみる。モダ方向にあるこのドルムシュ乗り場へ行くと、多くの乗り場があり、普段なら、ばらつきなくドルムシュが並んでいるが、この日は偏りがある。出発していくのがあるので、確かめに行くと、やはりボスタンジュ行き。1番端っこのタキシム方向乗り場に行くと、1台だけドルムシュが止まっている。客は乗っていない。近くに運転手らしき男がいるので尋ねる。「タキシム行きは、今、あるの?」「ない」「橋(ボスポラス大橋)は、渡れるの?」「閉鎖中だ」。これが、アジア側から、ヨーロッパ側に渡る方法が、全て消えた瞬間だった。もう、茫然とするしかなかった。この日、何度か聞いた「Kapali(閉鎖)」という言葉の最も強烈なものだった。
 むなしかった。ミラノの悪夢が蘇った。もう1度、イスケレへ戻るも、ヴァプルが動いてるわけでもなく、そして、そのイスケレから出たとき、向かいのビルがかすんで見えた、雪で。あの、ミラノのときと同じだった。ドゥオモがかすんでいたのが、目に焼き付いている。あれと同じだった。あのときと違うのは、空港へ行く術も、アジアからヨーロッパへ渡る術も無くしたということだ。そのことを、自分で自分に言い聞かせた。どうしようもなくなったら、そのなかで、することを考えるしか仕方がない。そして、あとは待つ、だけである。そこで、少し落ち着くのに時間要したが、先ずしなければならないこと、それは、職場の同僚に連絡を取ることだった。土曜日だったので、もう職場には残ってないと判断し、メールを打つため、ネット・カフェに向かい、月曜日に職場に行ったら、まず、今の状況を、管理職に伝えてほしい旨、連絡した。日本語のフォントをダウンロードするのに、約20分。同僚だけではなく、文面を変えて、いろんなところにメールを送ったので、それだけやって、ネット・カフェ(このネット・カフェ時間間違えてたくさん取ろうとしたので文句言ったのをなぜか覚えてる)を出ると、もう11時半ぐらいだったろうか。もう1度、イスケレを覗いてみようと思って、海岸通に出た。イシュ・バンカスあたりから海岸に渡るのではなく、少しハイダルパシャよりで海岸通に出ようとすると、ちょっとした人の流れ、そんなに大きくないのだけど、ちょっとした流れがあるので、その辺にいたバスの関係者だったと思うが、その人に尋ねてみる。「今、タキシムに行く方法はある?」「水上ドルムシュが動いてるぞ」「えーーっ!」。もう走り出したと言っても、雪の上なので、こちょこちょ走りだが、海岸に出ると、確かにスタンバッてる。「今だ、今だ、今、行かないと」と、あわてて、ホテルに戻り、事情を説明し、この日の宿泊をキャンセル。荷物を担いで飛び出したのでした。頭の中を駆けめぐったのは、アイシェ・ハヌムとジュン松氏が泊まったことがあると言っていたホテル。とにかくヨーロッパ側に渡っておかないとの気持ちが、そのホテルの名前を、黄紺に思い出させたのでした。
 黄紺が、水上ドルムシュに乗り込んだ頃にから、徐々に、空が明るくなり出した。だから、その頃には、ヴァプルも動き出していた。でも、ここで渡ってしまうと、今回は、恐くって、もう2度とカドゥキョイに戻って来れないかと思うと、これは辛かった。もう7年ほど、イスタンブールでは、カドゥキョイを離れたことがなかったもので、、、、。で、当のホテルに着いたあと、やるべきこととして、空港への幹線道路が大丈夫かということであった。だから、トラムで、ゼイティンブルヌまで行き、更にそこから、アタキョイまで行ってみた。とろとろと進む、トラム横の幹線道路を横目に、トラムもメトロも、順調に行っていた。後で知ったことだが、この日のイスタンブールは、この特にメトロで、都市機能が保てたと言っていた。だから、潤沢なはずだ。黄紺がこれで分かったことは、これ以上の雪が降り積もらなければ、アタキョイまでは行ける。アタキョイまで来れば、もう、空港まであと少しだから、あとは、タクシーだ、タクシーさえひらうことができれば、空港まで行ける。そう考えて、アタキョイまで行く。外の寒さは尋常ではない、おまけに、足下は雪でぐちょぐちょ。でも、メトロの上にある陸橋を越えて、降りたところに、いつもたむろしているタクシーこそいないが、少し待ってると、空車が入ってくる。あっ、これで、この程度の雪だったら、大丈夫なのだと確認ができ、随分と気が楽になったものだ。でも、2〜3時間おきに、天候はコロコロと変わり、予断は決して許される状況ではなかった。メトロで、アクサライまで戻り、そこからドルムシュで、タキシムまで行く。だが、この晩に、AKMで予定されていたコンサートは中止になり、チケット売り場には、払い戻しのための職員すらいなかった。演劇関係のチケットを売る職員がいたので聞いてみると、当日のキャンセルは、TVで連絡済みとか。これは、黄紺には分からないよ。払い戻しは、別の日にねということだった。
 断続的に雪は降っていたが、午前中のときのような、向こうが見えなくなるような雪ではなかったので、この分では、計画通りに行けば、空港まで行けると思っていた。だが、その晩の、雪の降り方は、それ以上だった。ホテルの窓から見える雪は、夜半からは止むことは決してなかった。断続的でなくなったのだ。そして、風がすごかった。すぐ前にあるビルにかけてある旗の音が、今だ黄紺の耳に染みついている。これは、もうダメだと思って、夜中の3時半に、職場に電話をかけた。運良くつながり、事情を話し、黄紺が主宰をしなければならない会議のことを頼んだ。もう、その時間帯からは、気になって、結局寝ることはできなかった。だから、朝の早い内から、TVをつけて、情報を得ようとするのだが、それが流れないのだ。その日は、日曜日だったからなのか、予定の番組しか流れない。ニュースになっても、地方の道路状況については流してくれるが、イスタンブールのそれについては流してくれない。あるTV局などは、前日流した大雪情報を流している。また、ある局は、タキシムのスタジオで、気象関係の専門家を招いて分析をしているのだが、スタジオの外を歩く人が多すぎるし、明るすぎる。タキシムの近くに泊まってる黄紺の周りと違いすぎることから、前日の再放送と分かったほどだった。はっきり言って、TVが、全くアテにならなかった。アテになるのは、後で分かることだが、それは、ラジオ、それにつきる。イスタンブールのラジオ局が、正確な情報を流してくれていたのだ、黄紺が、途方にくれている間に。朝の8時に、出発のために、フロントに降りていった。「これから、空港まで行かなきゃならないんだよ」「大丈夫、空港は閉鎖してないよ」「えっ、ホント?」「大丈夫。空港まで、どうして行くつもりなの?」「エミノニュまで行って、トラムに乗って、、、」「ここからだったら、タクシーが、1番早いよ」「でも、ここじゃ、タクシーつかまえられないだろ?」「そこの道を行ったら、大きな道に出るから、いくらでもひらえるよ」。黄紺は、このことを考えてたけど、タキシム方向からカラキョイ方向に流れてくるタクシーが、掴まるとは思えなかったので、先に書いたような計画を立てていたのだったが、一旦は、この言葉を信じることとした。来ないときは来ないときで、変更は可能だと判断した。
 荷物を抱え歩くには、雪は手強かったが、指定された大通りまで出る。すると、100mほど先に、黄紺が出てくるのを待ちかまえてたかのように、1台のタクシーが、そろそろと動き出した。どうやら、ホテルの多い地域で網を張っていたのだ。もう、乗るつもりできてるので、こちらも、思い切り手を挙げ振った。「空港まで?」って言うと、黙ってうなずく運転手。「えっ? 空港、大丈夫なの?」「大丈夫、ラジオで言ってたから」。ホテル・マンも、この運転手も、ラジオで確実に情報を得ていたのだ。「道は、大丈夫なの」「大丈夫だよ。チェーンを付けてるから」。このチェーンを巻くということ、前日、まだTVが機能していた頃、散々呼びかけていた。チェーンを巻かなければならない程の雪を、普段経験しないイスタンブールっ子は、車に、チェーンを積んでいないから、そこら中で、停滞の原因を作ってたらしいのだ。それをきっちり抑えてる、このタクシーの親父、も1つ、いい情報をくれた。「いや、空港へ行けるの?」、そういう意味で、先の質問は発したのだった。「大丈夫さ。市役所が、夜の間に、雪を片してくれたから」。確かに、空港への道路は、見事に、横にかき分けられている。おまけに、車の量が、この雪と日曜日だということで、少ないので、実にスムーズに空港に着いてしまった。
 空港に着くと、まず、黄紺の乗るシンガポール航空は、キャンセルにはなっていない。が、1番心配だったのは、果たして、ドバイ経由で、その朝、イスタンブールに到着しているはずの飛行機が着いているかどうかだ。急いで、1階に降りてみる。すると、どうだ、「indi」の文字。このときばかりは、嬉しかった。時間は遅れるかもしれないが、少なくとも、黄紺が抑えてる飛行機には、間違いなく乗れるということを意味していたからだ。実は、空港へ来るまで、一縷の望みとして、この可能性があるかもしれないと、黄紺は思っていたのだ。ドバイからの飛行機の到着時刻に、1時間ほど、凪に入り、雪も随分と小降りになったときがあったのだ。だから、ひょっとしてと思っていたのが、そのひょっとしてだったのだ。なんともラッキー。案内板を見ると、トルコ航空機は、次から次へとキャンセルが出ていく。しかし、外国の飛行機会社で、キャンセルになっていたのは、同じく大雪で悩まされていたギリシャの飛行機と、そしてキプロス・トルコ航空だけだった。考えてみりゃそうだ。外国から来た飛行機は、帰さなければならないんだから、キャンセルはあり得ないんだという単純なことに、そのとき初めて気づかされた黄紺だったのです。しかし、8時半頃、空港に着いて、飛行機は飛んでいなかった。後は、空との相談だ。風と雪が、小降りになるのを待たねばならなかった。それがどうだ、黄紺が、パスポート・コントロールを通ろうかという時間帯、即ち、出発予定時刻1時間余前に、なんと薄日が差しだしたのでした。どこまでついているのか。この逆は、随分と経験させられたが、全てがうまくうまく機能するってこと、あるんですね。結局、時間通りに飛行機に乗ったが、出発は、1時間遅れただけであった。詰まりに詰まっていたはずだから、1時間くらいは、仕方ないだろう。いや、1時間で済んだだけで、むしろラッキーと言わねばならないだろう。飛び立ってみると、今まで、1人で騒いでいたのは、単なる思い出としかならない。でも、その場面、その場面では、結構、肝冷やしました。ほんと、大雪だけは、勘弁です。でも、2度あることは、3度ある? あな、恐ろしや〜〜!





【トルコ編】[28]ナターシャさん

 「ナターシャさん」、このロシア語ちっくな響きとくれば、当然の如く旧ソ連諸国の女性を連想させてくれる。米ソ冷戦に時代、ソ連に対し、その最前線基地の役割を担っていたトルコとソ連の関係は、良くなかった。それこそなりふり構わずアメリカが、「友好国」支援に向かった端緒となった例のトルーマン・ドクトリンは、このトルコ支援を表明したことなわけだから、仲がいいわけはない。そのソ連が、1992年、あっけなくなくなっちゃいました。おかげで、トルコと国境を接する国が増えてしまいました。グルジア、アルメニア、そして、あまり知られていませんがアゼルバイジャン。アゼルバイジャンは、その飛び地とトルコが、国境を接してるんですよね。こんな風になってしまった。おまけに、それらの国は、揃って経済的には多大な問題を抱えているというお決まりの構図。となれば、世の常、人は、経済的弱小国より、より強い国へと、仕事を求め、金を求め流れていく。現在、トルコは、歴史上アルメニアとはいろいろあったので、そちらとの国境は封鎖されているが、グルジア及びアゼルバイジャンとの国境が開かれているので、そこから人の流れは絶えない。黄紺の知る限りでは、グルジアとの国境は、ホパから黒海沿岸を更に東に進むとあるサルプと、アルダハンから先へ抜ける2つがあり、アゼルバイジャンへは、ウードゥルから東へ抜けるルートがあるはずである。だから、その辺りを歩いていると、一見して分かる旧ソ連系の人と出会う。黒海沿岸のリゼやトラブゾンには、「ルス・パザール(ロシア市場)」と呼ばれるものがあるほどである。そこでは、旧ソ連系の人たちが、流暢にトルコ語を操り、どこにでもあるよな日用雑貨品を売っている。行くまでは、「ルス・パザール」だから、旧ソ連系の特産物でも販売してるのかと思っていたら、全く当てが外れた記憶がる。ホパまで行くと、恐らく旧ソ連系のトラックであろうか、海岸沿いに並んで駐車していた光景を見たことがある。これも、トルコへも物資調達ツアーの車ではないかと、黄紺は、勝手に合点していた。
 そのようななか、一見けばい、いや、何度見てもけばい女性と、たくさん出会う。着ているものが派手、いやちょっとばかし、その上に「ど」を付けてもおかしくない。横にいるだけで、化粧の臭いまでしてくる女性と出会う。そのような女性と、サルプなどのような、津軽半島冬景色的な光景のサルプやホパあたりで出会うと、正直言って引いているしかない。カルスからウードゥルに抜けるドルムシュ内で出会うと、たじろぐしかない。そう、シャブシャットからアルダハンに抜ける植生の変わる路を抜けるときに、ドルムシュに同乗すると、斜め眼で見るしかない。そういった女性が、「ナターシャさん」である。むろん、「あんたたち、ナターシャさん?」なんて聞いたことはないので、黄紺の判断である。でも、120%間違いはない。ここまで書いたことからお分かりと思うが、このナターシャさん、それこそ裸一貫でのお商売をなさる方なのであります。最も手っ取り早く金になる普遍的なお商売をなさってる方なのです。そのような女性が、旧ソ連崩壊後、旧ソ連諸国より豊かなトルコで見られるようになった。だから、トルコ北東部を旅行していると、このような女性と、ごく普通に出会うし、トルコ人たちは、ちょっと揶揄した気持ちを込めて、「マダム」と呼びかけている。ホテルに泊まるのも、なんかちょっと憂鬱だ。怪しげなインテリアがあったり、レセプションにたむろしていたりと、ここで引くしかない。アルダハンのホテルでは、これと関係があるかどうか分からないが、やけにパスポート・チェックに気を遣っていたし、実際、ポリスが来たとき、宿泊客は、各自呼び出されていたようだ。黒海沿岸都市のなかでは大都市に入るトラブゾンは、当然の如く、ナターシャさんの格好の稼ぎ場所である。そして、安宿街に居を構え、商売をなさってるようなのである。その噂を聞いていたので、初めてトラブゾンに行ったとき、ましなホテルに逗留しようとしたのだが、生憎当日は、トラブゾン・スポルのビッグ・マッチのある日で、まともなホテルは、全て満杯。で、仕方なく安宿街の一角に部屋を取った。そのようなホテルなので、当然、トイレは共同。既に老いらく街道まっしぐらの黄紺は、夜中にトイレにどうしても行かないわけにはいかない。その夜も、そうだった。そして、そしてトイレから出てきてびっくら、下着姿の旧ソ連系の女性が、廊下を闊歩しておりましたです。ぎゃほー! これは、正直、のけぞったぞ。
 こういったご職業、売る者がいるから買う者がいるのか、買う者がいるから売る者がいるのか、コロンブスの卵のような議論が起こるかもしれないが、実態として、黄紺が見たような光景が実在しているわけだから、需給バランスがとれているのだろう。殊に、リゼ界隈は、お茶大尽じゃないだろうが、小金大金を持ったおっちゃんたちがいるはずだから、買う力はある。同じ地方都市を歩いていても、結構、黒海沿岸の東部って、そんな雰囲気ありますものね、街の風景見ていても、明らかにアナトリアの真ん中に比べて、豊かだと感じますから。そこに余りにも不釣り合いなけばい女性と来れば、商談は簡単に成立する要素ありです。ですから、リゼやホパのホテルって、なんか感じが違うのです。外からは分からないが、中に入ると、むりやりシャンデリアが飾られていたり、光り物系が目に付いたりと、やたらと居心地が悪い。ホパなどは、ホント寂しい街だから、余計に、そのようなインテリアに出会うと不安になる。変な勧誘を受けないかとか、夜半に嬌声が聞こえてこないかとか、余計なイマジネーションが働いてしまう。街中へ出れば、余りにも素朴な人たち、だがホテルのけばい、このコントラストに戸惑うしかないのである。
 こんなことを書いたついでに、黄紺の知っている、トルコの公娼制度について書いておこう。この情報は、もうかれこれ5年以上前のものなので、変わっていれば、ご存じの方教えて欲しい、ぜひ。トルコでは、そのような場所が2カ所あると聞いている。1つは、イスタンブール、もう1つは、ディヤルバクルにあると聞いている。で、実際、イスタンブールのそれは、偶然行き会わせ、詳細な場所を知っている。ここに書いておく。ガラタ塔の横の道を、たらたらと下りて、すぐ左に、夜にでもなると、やけに人通りの多い路地がある。坂道である。この坂道を下りきると、カラキョイの「ギュルハネ」近くの駐車場前に出る。その坂道の途中に、件の場所の入り口があり、入り口でポリスが、身分証チェックをしている。その上に、「18歳未満、立入禁止」の看板が掲げられている。実は、黄紺は、この場所は、ガラタ塔へ行ったとき、偶然迷い込んだ。一緒に行ったトルコ語教室の同級生の無礼者氏は、この入り口にかかっている看板が、即座に分からず、やおらバッグから辞書を取り出し、単語を調べだした。そしてしばらくして、「おい、おもろいこと分かったでぇ」と曰わく。「ここ、18歳未満、お断りて、書いたあるでぇ」。このずれたおっさんに、黄紺は、狐でも憑いたのかとさえ思ったぞ、そのとき。その直後だった、やけに流暢な英語で、「ここは危ないところだ。早く行きなさい」「カラキョイへ行きたいんだけど」「じゃ、私が案内しよう」と言ってくれた男性がいた。黄紺は、今でも、この人は、非番になったか、私服のポリスだと思っている。あたふたと、カラキョイまで、坂を下った思い出がある。「鞄を、しっかりと抑えておきなさいよ」と言いながら、この男性は、道案内をしてくれました。この話を、帰国して、トルコ語教室のN先生(女性)にすると、「なんだ、冷やかして来なかったの?」と言われたのが、やけに記憶に残っている。それ以後、頻繁に通るカラキョイだが、未だ再訪はしていない。
 もう1つの場所、それは、ディヤルバクルに行くたびに気にしてるところだが、未だ発見はしていない。絶対、城壁の内部にあるはずと、勝手に決めてるのだが、場所は、特定できないでいる。聞くわけにも行かない。だって、聞けば行きたがってると思われるのは、間違いないから。だから、自分で、臭いを嗅ぎつけるしかないと観念している。3年連続行って、嗅ぎつけてないのである。黄紺が、単に鈍感なのか、めっちゃ分かりにくいのか、もし見つけることがあれば、この続稿を、この後書きたいと思っている。[27]へ戻る





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