トルコの東部、南東部に行ってきたというと、「大丈夫なんですか?」と、必ずと言っていいほど、治安上の問題を尋ねられる。黄紺自身も、今でも若干、その辺のことを考えながら歩いているので、ましてや、実際に行かれたことない方で、結構、トルコについての情報をお持ちの方は、そのように尋ねてこられるのである。黄紺自身、治安上安全であるか否かは、主観的な問題と考えている。現在のイラクのような場合は別として、一般的には、そのように考えているので、自分で情報を収集して大丈夫と思えたら大丈夫なのであって、人によって満足度は違うので、黄紺が大丈夫と思っても、他の人が大丈夫と思うかは、あずかり知らぬのである。ま、いずれにせよ、ここでは、その安全か否かの判断の1つの基準として、トルコを歩いていて、どれ程のコントロールを受けるか、即ち、検問ないしは職務質問等、その手のものを受けるかということを書いてみたい。
こんな経験がある。95年の夏、今はないが、タイ航空のイスタンブル便に乗ってトルコに入ったことがある。バンコクからアテネ経由でイスタンブルに入るのである。多くの乗客は、アテネで降り、イスタンブルへ行く客は少数であった。この飛行機、ほとんど日本人らしき東洋系の乗客がいなかったものだから、逆に日本人らしき乗客が珍しかった。ましてや、若い女性が1人というのが目についたものだから、トルコに1人で行かれるわけのようなものを尋ねてみた。すると、まず1人で旅をして、徐々に東の方へ行って、ワンで、あとからトルコに来る友人と待ち合わせをするんだと言う。まだ、PKKの活動が盛んで、イスタンブルやアンタルヤという人目のつくところでも、活発にテロ活動をしていた時期だったので、ましてや東部・東南部となると、びっくり仰天したことがある。ましてや、ワンまでは、女性の一人旅。テロのことを聞いても知らないと言う。トルコ語も喋れないしと、正直呆気にとられたが、とにかくデニズリまで行くというので、シルケジで、鉄道の切符を買ってあげて、「お気をつけて」という言葉に重ねて、「帰りの飛行機で一緒になったとき、様子を聞かせて下さいね」と行って別れた。偶然、帰りのバンコク便も同じ飛行機だったのである。そしたら、無事、帰りの飛行機で、一緒になった。3週間後のことである。早速、様子を尋ねた。「いやー。もう恐くって。ワンに行かなくっちゃならないんだけど、ディヤルバクルでは降りられなかったです」と、恐らくそこまでの道中、いろいろと聞いたのでしょう。ディヤルバクルはすっ飛ばして、夜行(これがまたすっごい!)で、東南部を移動してワンまで行ったというのである。何度も検問があったけど、「夜中の2時にやられたんですよ。それも、荷物全部。普通、女の人のポシェットまで開けます? 写真のフィルムも、1つ1つ開けられました」。これが、私が聞いた、最も厳しい検問である。
上の彼女が通った頃に、確かビトリスの事件が、相前後して起こっているはずなので、どうしても慎重にならざるをえなかった。その彼女と会った同じときに、黄紺は、東南部へ入っているが、まだ旅の果てを、ビレジックと定めていたほどである。そのため、黄紺の場合は、俗に「危ない」と言われていた地域には、まず、黒海方面から入った。96年の夏である。リゼ在住経験のあるT氏より、アルダハンまでは大丈夫だとか、トラブゾンの人は、カラ・ダーに入ることを戸惑ってるなんて話を聞いていた頃である。ホパからアルトヴィン、シャヴシャットを経てアルダハン、カルスに至る行程を、初めて通ったときに、カルスの手前にあるススズという町に入る直前で、ミニバスが止められた。乗っていた者全員の身分証明書が取り上げられ詰め所のようなところへ持っていった。そこで何をしているのか分からないが、黄紺の場合は、パスポ−トに一瞥を加えられただけで返されただけだった。また、それだけではなく、男どもは、後ろ向きにされ。ボディ・チェックまで受けていた。これは、初めての経験だったため、結構、インパクトが強かったが、このあと、度々見受ける光景の初めであっただけであった。また、カルス方面でのテロ活動というものに、当時知識がなかったが、2003年になって、カルスからウードゥル方向に行ったところにあるディゴルが、活動の一つの拠点であったことを知ることとなって、ようやくそのときの検問の意味を理解できたのである。東南部やこのカルス方向に、1度足を踏み入れると、それまで知っていたトルコとは、様子が随分と異なることを知ると、そしてそれが、とっても気に入った黄紺は、どうしてもトルコに行くと、足がそちらに向く。一方で、テロ活動のニュースも伝わってくるので、耳をそばだてるようにして、情報を手に入れるよう努めた。息子を連れて、初めてトルコへ行ったとき、シワスから一気にエルジンジャン、エルズルム、カルスへ駆け抜けた。98年の夏であるが、もうこの時期には、このラインでは、1度も検問は行われていなかった。だが、このとき、エルズルムからワンに抜ける予定であったが、途中のアール県のどのイルチェか分からなかったが、そこを通る前日にテロがあり、そのルートを諦めたことがある。息子と一緒だったからである。でも、そのときも、「エルズルム=カルス」ラインからアールへの分岐点ホラサンでも検問はなかった。
ここの状態に気をよくして、99年には、異なったルートで南東部に入る。この99年には、オジャラン逮捕事件があった。直後には、テロ活動も活発だったが、裁判が進むに連れて、沈静化していく。エラズーで、大きな爆弾事件が2回あったくらいになっていた。トカトから黒海へ抜ける道が危ない、その程度の情報だけが、黄紺の頭に入ったので、このときに、南からディヤルバクルに入っているが、ここでの検問は、ディヤルバクルに入る直前に、簡単な身分証明書チェックだけだった。この頃、Ayさんと話した記憶を呼び戻すと、このルートは、全然問題はない。ただ、ここから先、ビトリス越えでワンに入ると、やっぱワンに着くとホッとするというものであった。その言葉を、黄紺は、その翌年、身をもって体験する。まずワン方向から言うと、タットワンに向かって行くと山に入りかけで大きな検問がある。黄紺は、後にも先にも、バスから降ろされ、自分の荷物を特定し、そして荷物を開けさせられ、事細かにチェックされたのは、ここで、そしてこのときだけである。でも、フィルムの中までは見られはしなかったが。そして、タットワン方向に進んで、山を下りたところで、もう1度身分証明書チェック。要するに、山が活動の拠点とターゲットをしぼっているのが明らかだった。03年夏、このルートの逆を通るが、黄紺が荷物チェックを受けたところでだけ、身分証明書チェックが行われており、検問の中身が簡素化されていた。でも、山中となると、タットワンからビトリスを抜ける道は、もろに山中なのである。先述したテロが起こったわけは、実際に通ってみると合点がいくのである。タットワンから出て、バットマンへの分かれ道までの間、計3回の検問。いずれも荷物チェックまでには至らないものであった。
02年、カフラマンマラシュからマラテヤを抜け、エラズーからディヤルバクルに入った。エラズーからトゥンジェリまで、ドルムシュで1時間半。まだ、ここは抜けていない。トゥンジェリには二の足を踏んだ黄紺だが、ビンギョルに入って、ビンギョルからディヤルバクルに抜けてみようと思った。ビンギョルも、テロの活発なときには、何度も、そういう点でのみ聞いたことのある町だったからである。エラズーからビンギョルへ抜ける道、ビンギョル近くになってくると、ホントに東へ来たという感じがする。町へ入るまでは検問は、確かなかった。03年にも通ったが、このラインはタットワンまで、検問をやってない。だが、町で、ホテルで、とっても貴重な経験をしている。まず、ホテルにチェックインすると、パスポートを預からせてくれと言う。わけを尋ねると、ポリスによるチェックがあるという。ならば、ポリスが来れば言ってくれ、そのときパスポートを持っていくからと応えると、フロントはあっさり了承。夜、ネットカフェで遊んで帰ってきたのが、7時半頃。また、同じやりとりをして、部屋に戻る。ものの30分程して、フロントから電話。黄紺は、この帰ってきたタイミング、電話のかかってきたタイミングからして、ホテル側が、ポリスに通報したと思っている、いや通報しないとダメなようにさせられていると思っているのだが、部屋を出てエレベーターに乗ろうとすると、わざわざ下からもお迎え。パスポートを持ってきたかと念を押す。その男に聞いてみた。「宿泊客全員に、こんなコントロールがあるのか?」、回答は「外国人だけ」ということでした。黄紺は、そのホテルのロビーで、職務質問を受けるハメになってしまった。一通りパスポートに目を通してからの質問というのは、大したものではない。入国の日、出国予定日、どこを通ってきたか、どこへ行くか、目的は? その程度のありふれたものだった。これが、職務質問の1つ目であった。翌日、予定通り、ビンギョルからディヤルバクル行きのドルムシュに乗る。これが、山の中。計4回の身分証明書チェック。このとき思ったこと。このチェック、全部PC入力してる、ないしは控えを取っていると感じた。戻ってくるまでに、ここのチェック、時間がかかったのである。他よりは、そして検問所ごとに、その中から抜けたやつがいないかチェックしてる、恐らくこの勘は当たっているでしょう。そして、その内の1回、黄紺は、もう1人の男とともに、検問所に、車から降ろされ連れて行かれたのでした。またしても職務質問。聞かれた内容は、ほぼホテルでのときと同じ。このときも、明らかに外国人をターゲットにしていた。ビンギョルからディヤルバクルは、ドルムシュで、約4時間の行程。知らずと、一種の家族的雰囲気が出来上がっていく。もちろん乗客や、特にカプタン、即ち運転手の人柄によるであろうが、そのときは、そういった条件が整っていた。丁度W杯の後だったこともあり、黄紺を見て、韓国人だと言い続けるカプタンが、そのときも、「韓国人が戻ってきた」「いや、ちゃうちゅうねん」のやりとりを聞いて、また盛り上がる乗客。なんか、検問に会うのを楽しまなきゃしゃーないの雰囲気、なんか救われた感じがしたものでした。
03年夏、黄紺は、ついにハッカリに入った。ハッカリについては、思い出がある。99年の暮れにトルコに入り、年明けに、イスタンブルで、トルコの子どもたちを撮り続けられている写真家のE氏らと呑んだことがある。黄紺と会う前に、E氏は、厳冬のエルズルムからハッカリへと回ってこられていた。このときE氏から聞いたハッカリのコントロールの様子が凄まじかった。ホテルに投宿するとポリスが現れる、ホテルから出かけようとすると、どこへ行くのか尋ねられる。出かけたら出かけたで、その先にはポリスが待ち構えている。ホテルは、通報の義務を負わされていたんだろう。なんとも凄まじい話であった。それから2年半が過ぎていた。EU加盟を控え、人権問題が、大きな話題にならざるをえないトルコで、この2年は、とても大きな年月ではないかと思い、イラク戦争の後だったが、ハッカリに入ってみた。ワンからダイレクトに行けば、3時間半の行程。検問は3回。全て身分証明書のチェックだけであった。往復計6回の内、1度なんかは、車内で集めた身分証明書を、車から降りるなり運転手に渡したふしがあった。これは、車内の他の客が言ってたこと。ハッカリのなかでは、トルコ国旗掲揚・降納式という時代錯誤的なセレモニーが、日曜日に行われてはいるが、黄紺自身には、E氏が体験されたような、猛烈なコントロール攻勢はなかった。ただ、ハッカリからワンへの車内、検問が行われた直後、1人の男が黄紺に尋ねた。「日本で、こんなことやってるか?」「いや、ないよ」、その後、その男は、次のように言った。「ここは、トルコじゃないんだ。だから、こんなことやるんだ。ここは、クルディスタンなんだよ」と。
イラク戦争で、日本でもクルド問題が、マスコミで取り上げられるようになった。世界は、クルド問題を知るようになり、目が注がれるようになってきた。だから、トルコ政府も、EU加盟の間に合わせ的な政策では、世界を説得できない、ましてやヨーロッパを説得できないはずである。そのようななか、こういったコントロールのないトルコを、節に望むものである。[29]へ戻る
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