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【トルコ編】[29]東方教会

イシュハン(グルジア教会) マルディン(スリアーニー)東方教会  あまり細かなことは書かずに、このタイトルで書いてみようと思い立った。黄紺は、実は、学生時代と言っても、もう遙か記憶の彼方に行ってしまっているが、教会史を専攻していた。中世教会史、なかでもクリュニーという修道院に関心を寄せていた。そのような人間に多くあることだが、この東方教会というのは、好奇な目でちょっと垣間見てみたい、エキゾティシズムを掻き立てるに十分な内容を持っている。黄紺は、なぜ、トルコに関心を持ったのですかと問われたとき、東方教会への関心を上げることがあるが、それは、そのようなわけである。一概に、東方教会と言っても、様々である。イスタンブールには、コンスタンチノープル総大司教座が、そのまま残っているが、これなどは、一般にギリシャ正教会と言えばいいのだろうが、トルコには、それだけではなく、アルメニア教会も、グルジア教会も、スリアーニーの跡ばかりか、立派に現存しているのである。探せば、ブルガリア教会もあるかもしれない。このことが、トルコへの関心をそそるし、そしてそれを求めての、東部への旅を促すのである。
 グルジア教会については、羊々舎の赤松順太さんが詳細に報告されているが、黄紺も、その存在を知ったときは、この情報を衝撃的に受け取ったことを覚えている。それは、リゼでフィールド・ワークの経験をもつT氏からもたらされた。知人たちと、アルトヴィンから車をチャーターして、いわゆるグルジアン・ヴァレーを闊歩し回ったことの話は、衝撃的だった。そんなものが、残ってることすら知らなかった時期である。「グルジア教会」、この言葉だけで、黄紺には十分である。アルメニア教会との親近性はあれども、単性論を持ち続けた教会。三位一体に慣れた物言いには、あまりにもエキゾティシズムを掻き立てる、その響き。その跡が、1つならず残ってる。弾かれたように行きました。黄紺の採ったルートは、アルトヴィンから、シャヴシャットに入り、そこで宿を構える。そこから、車をチャーターするという方法であった。黄紺の知る限り、シャヴシャットには2軒のホテルがある。その内の1軒のホテルの主人と、アルトヴィンからのミニバスで隣り合わせになり、迷うことなく、泊めてもらう。いい人だった。カラダー(山)さえなければ、トラブゾンから、ここまですぐ来れるのにねと、地図を眺めながら2人で喋ったことが懐かしい。その主人、夜中にトイレに立つと、空き部屋で、暗がりの中、友人に詩を語って聴かせていた。トルコ人の粋さを見た思いがした。この界隈のグルジア教会では、イシュ・ハンが最も印象的。シャヴシャットからエルズルム方向へ道を執り、またその道を南にそれていく。更にその道から、イシュハンに入る 道がすさまじい。禿げ山、それも一切緑のない砂道を、延々と上っていくのである。しかも、周りの風景こそ違うが、アルトヴィンの町に上って行くような坂である。時間もそのくらいかかったろうか、緑が見え出すと、そこに小さな村がある。その中に、イシュハンがあった。円錐状のドームを頭に抱く教会だった。アルメニア教会にも、共通する形状だ。このあたりに残るグルジア教会は、もちろん今は、その跡が残るだけであり、このイシュハンのように、外枠は残るが、内部は崩れのひどいものがあるかと思えば、今は、立派にジャーミーとして転用されたものもあるが、このグルジアン・ヴァレーでは、現在も使われているものは、ない。
 同様に、東部では、跡だけを見ることのできるものが、アルメニア教会である。トルコとアルメニアの関係は、日本と韓国のようなもので、隣国故に、歴史の傷跡が深いが、かつてのオスマン朝が、アルメニア人コミュニティの存在を否定しなかった関係から、イスタンブールなんかでは、実際に使用されているアルメニア教会があるらしい。が、東部では、近いがために軋轢も激しかったのか、我々は、その跡を見ることしかできないでいると言っていいと思う。例えば、カルス市内のカレ(城塞)下には、中には入れないが、10世紀か11世紀に建てられたのではないかと思しき教会が、外回りは完全に残っているし、第一カルス郊外には、有名な中世アルメニアの都市遺跡アニが残ってるので、そこでアルメニア教会を目の当たりにすることができる。川向こうはアルメニアというきわきわに立つ教会では、その内部に、フレスコ画も見て取れるのである。ワンに行けば、アクダマル島へ行くのが定番だろう。ワン市内からタットワン方向へ30分くらい行ったろうか、アクダマル島へ渡る船着き場がある。場所柄年がら年中やってるとは思わないが、黄紺の行った夏場には、少なくとも島へ渡る船を、近くの村に住む湖の漁民が、船を操っていた。この島に、ぽつねんとアルメニア教会がある。船で島に近づく風情が、とってもいい。この島の高台は、軍が接収しているので入れないが、その際まで行って、アルメニア教会越しに見るワン湖も、またいい。最後に、対岸に戻るとき、振り返ってみるアルメニア教会が、またいいのである。恐らくこのあたりだから、クルド人だろう。黄紺相手にはトルコ語で喋ってくれたが、おしゃべり好きのその男は、黄紺が、帰りの船で振り返りつつ余韻を楽しんでいるときに、どんどんと語りかけてこられて、ちょっぴり困ったが、いつしか相手をしている内に、その男の素朴な物言いに引かれて、こちらからも話が途絶えると、話題を変えて話し込んだ思い出が、アルメニア教会と重なって残っている。ワンに戻るときは、体を張って、船着き場前を通るバスを止めなければならないのも、またおもしろい記憶である。実は、黄紺のときは、その船頭さんが、止めてくれました。
 スリアーニーについては、いろいろと噂を聞いていた。Ayさんや新宿黄赤くんのレポートが某紙に載ったことも、もっとも両人からは、直接聞かされていたが、黄紺の興趣をそそるに十分だった。当然ながら、シリア国境沿いにある。まず、最初のスリアーニー体験は、ディヤルバクルでである。厳重に鍵をかけ、高い塀に囲まれている様子が、なるほどとは思うが、まずその異様さに目を奪われる。中に入れてもらうと、パパスさんが、日本人と見てか、教会内にも案内して説明までしてくださった。アラビア文字で書かれた聖書を、このとき初めて見た。ここのパパスさんに、スリアーニーの教会を見たければ、マルディンに行けと言われた。マルディン、ここの一角では、もうアラビア語のネイティヴな人たちが住んでいる。市場はチャルシュと言うよりか、スークと呼ぶに相応しい。だから、ここにスリアーニーの人たちがいることは、当然なのかもしれない。この町のスリアーニーの教会を見たときに、ミディヤットへ行くことを勧められた。マルディンで、自らの町を紹介し続けている人の話だと、「今は、PKKも何も、あったもんじゃないよ。大丈夫だから、行っといで」と言ってくれたが、単に時間の問題で諦めたことがある。その翌年、ハサンケイフに行くために、バットマンに入った。そして、ハサンケイフに行くドルムシュを探していると、なんと、ハサンケイフを経由して、ミディエットへ行くものが、夏場だと1時間に2本も出ている。それこそ、ミディエットから、一筋二筋入ると、そこにはスリアーニーの教会の姿が目に入ってくる。都会から来たのか、およそこの町とは合わないトルコ人の旅行者もいる。残念ながら、この町のパパスどのは、全て留守で、中に入れてもらえなかったが、その数の多さ、そしてそれらが生きている姿に圧倒されたものである。
 トラブゾンに、アヤソフィアという教会がある。中には、美しいフレスコ画が、残っている有名な教会だ。確かにこの教会は、ビザンツ系の教会だと言ってしまえば、それまでなのだが、歴史的なビザンツ教会とは、いささか異質なので記録に留めておこう。十字軍のなかで、第4回目のそれをご存じだろうか。ラテン教会の十字軍が、東方教会の拠点コンスタンチノープル(現イスタンブール)を攻めるという言語道断な十字軍である。この攻撃を受けたビザンツ帝国は、一旦滅び去ってしまう。しかししぶといビザンツ帝国は、アナトリアに移り生き残り、コンスタンチノープル奪回の機会を伺う。その1つが、トレビゾンド帝国である。即ち、現トラブゾンを基点に作られた国家というわけである。だから、、、当然のように、この地にキリスト教会が作られても不思議ではないのである。そのときニケーア、現イズニックに逃げ込んだ勢力もあった。そのニケーアは、アリウス派異端を排除した公会議が開かれた土地でもある。
 このように書けば、単性論異端を排除したカルケドン公会議が開かれた場所が、現カドゥキョイだということも、書き添えておかねばなるまい。フェネルバフチェのホームタウン、イスタンブールのカドゥキョイである。4世紀、この公会議が開かれたときは、まだ、コンスタンチノープルとカルケドンは、マルマラ海を挟んだ2つの町だったのだ。対岸のコンスタンチノープルには、言うまでもなく東方教会のヒーロー、アヤソフィアが、その威容を見せてくれるが、コンスタンチノープル総大司教座の跡は、いや今も健在だが、その場所は、あまり省みられてないのではないか、殊に日本人には。金角湾を望む場所に、立派に存在している。
 駆け足で、東方教会の内、ビザンツ関係は、極力割愛して拾い上げてみた。イスラム世界に歴然と残る東方教会の威容、これを見るだけでも、満足度高しと、黄紺は思っている。これに、パウロ伝道の跡などを付け加えると、もうトルコは、キリスト教遺跡の宝庫中の宝庫なのである。





【トルコ編】[30]コントロール(検問)

 トルコの東部、南東部に行ってきたというと、「大丈夫なんですか?」と、必ずと言っていいほど、治安上の問題を尋ねられる。黄紺自身も、今でも若干、その辺のことを考えながら歩いているので、ましてや、実際に行かれたことない方で、結構、トルコについての情報をお持ちの方は、そのように尋ねてこられるのである。黄紺自身、治安上安全であるか否かは、主観的な問題と考えている。現在のイラクのような場合は別として、一般的には、そのように考えているので、自分で情報を収集して大丈夫と思えたら大丈夫なのであって、人によって満足度は違うので、黄紺が大丈夫と思っても、他の人が大丈夫と思うかは、あずかり知らぬのである。ま、いずれにせよ、ここでは、その安全か否かの判断の1つの基準として、トルコを歩いていて、どれ程のコントロールを受けるか、即ち、検問ないしは職務質問等、その手のものを受けるかということを書いてみたい。
 こんな経験がある。95年の夏、今はないが、タイ航空のイスタンブル便に乗ってトルコに入ったことがある。バンコクからアテネ経由でイスタンブルに入るのである。多くの乗客は、アテネで降り、イスタンブルへ行く客は少数であった。この飛行機、ほとんど日本人らしき東洋系の乗客がいなかったものだから、逆に日本人らしき乗客が珍しかった。ましてや、若い女性が1人というのが目についたものだから、トルコに1人で行かれるわけのようなものを尋ねてみた。すると、まず1人で旅をして、徐々に東の方へ行って、ワンで、あとからトルコに来る友人と待ち合わせをするんだと言う。まだ、PKKの活動が盛んで、イスタンブルやアンタルヤという人目のつくところでも、活発にテロ活動をしていた時期だったので、ましてや東部・東南部となると、びっくり仰天したことがある。ましてや、ワンまでは、女性の一人旅。テロのことを聞いても知らないと言う。トルコ語も喋れないしと、正直呆気にとられたが、とにかくデニズリまで行くというので、シルケジで、鉄道の切符を買ってあげて、「お気をつけて」という言葉に重ねて、「帰りの飛行機で一緒になったとき、様子を聞かせて下さいね」と行って別れた。偶然、帰りのバンコク便も同じ飛行機だったのである。そしたら、無事、帰りの飛行機で、一緒になった。3週間後のことである。早速、様子を尋ねた。「いやー。もう恐くって。ワンに行かなくっちゃならないんだけど、ディヤルバクルでは降りられなかったです」と、恐らくそこまでの道中、いろいろと聞いたのでしょう。ディヤルバクルはすっ飛ばして、夜行(これがまたすっごい!)で、東南部を移動してワンまで行ったというのである。何度も検問があったけど、「夜中の2時にやられたんですよ。それも、荷物全部。普通、女の人のポシェットまで開けます? 写真のフィルムも、1つ1つ開けられました」。これが、私が聞いた、最も厳しい検問である。
 上の彼女が通った頃に、確かビトリスの事件が、相前後して起こっているはずなので、どうしても慎重にならざるをえなかった。その彼女と会った同じときに、黄紺は、東南部へ入っているが、まだ旅の果てを、ビレジックと定めていたほどである。そのため、黄紺の場合は、俗に「危ない」と言われていた地域には、まず、黒海方面から入った。96年の夏である。リゼ在住経験のあるT氏より、アルダハンまでは大丈夫だとか、トラブゾンの人は、カラ・ダーに入ることを戸惑ってるなんて話を聞いていた頃である。ホパからアルトヴィン、シャヴシャットを経てアルダハン、カルスに至る行程を、初めて通ったときに、カルスの手前にあるススズという町に入る直前で、ミニバスが止められた。乗っていた者全員の身分証明書が取り上げられ詰め所のようなところへ持っていった。そこで何をしているのか分からないが、黄紺の場合は、パスポ−トに一瞥を加えられただけで返されただけだった。また、それだけではなく、男どもは、後ろ向きにされ。ボディ・チェックまで受けていた。これは、初めての経験だったため、結構、インパクトが強かったが、このあと、度々見受ける光景の初めであっただけであった。また、カルス方面でのテロ活動というものに、当時知識がなかったが、2003年になって、カルスからウードゥル方向に行ったところにあるディゴルが、活動の一つの拠点であったことを知ることとなって、ようやくそのときの検問の意味を理解できたのである。東南部やこのカルス方向に、1度足を踏み入れると、それまで知っていたトルコとは、様子が随分と異なることを知ると、そしてそれが、とっても気に入った黄紺は、どうしてもトルコに行くと、足がそちらに向く。一方で、テロ活動のニュースも伝わってくるので、耳をそばだてるようにして、情報を手に入れるよう努めた。息子を連れて、初めてトルコへ行ったとき、シワスから一気にエルジンジャン、エルズルム、カルスへ駆け抜けた。98年の夏であるが、もうこの時期には、このラインでは、1度も検問は行われていなかった。だが、このとき、エルズルムからワンに抜ける予定であったが、途中のアール県のどのイルチェか分からなかったが、そこを通る前日にテロがあり、そのルートを諦めたことがある。息子と一緒だったからである。でも、そのときも、「エルズルムカルス」ラインからアールへの分岐点ホラサンでも検問はなかった。
 ここの状態に気をよくして、99年には、異なったルートで南東部に入る。この99年には、オジャラン逮捕事件があった。直後には、テロ活動も活発だったが、裁判が進むに連れて、沈静化していく。エラズーで、大きな爆弾事件が2回あったくらいになっていた。トカトから黒海へ抜ける道が危ない、その程度の情報だけが、黄紺の頭に入ったので、このときに、南からディヤルバクルに入っているが、ここでの検問は、ディヤルバクルに入る直前に、簡単な身分証明書チェックだけだった。この頃、Ayさんと話した記憶を呼び戻すと、このルートは、全然問題はない。ただ、ここから先、ビトリス越えでワンに入ると、やっぱワンに着くとホッとするというものであった。その言葉を、黄紺は、その翌年、身をもって体験する。まずワン方向から言うと、タットワンに向かって行くと山に入りかけで大きな検問がある。黄紺は、後にも先にも、バスから降ろされ、自分の荷物を特定し、そして荷物を開けさせられ、事細かにチェックされたのは、ここで、そしてこのときだけである。でも、フィルムの中までは見られはしなかったが。そして、タットワン方向に進んで、山を下りたところで、もう1度身分証明書チェック。要するに、山が活動の拠点とターゲットをしぼっているのが明らかだった。03年夏、このルートの逆を通るが、黄紺が荷物チェックを受けたところでだけ、身分証明書チェックが行われており、検問の中身が簡素化されていた。でも、山中となると、タットワンからビトリスを抜ける道は、もろに山中なのである。先述したテロが起こったわけは、実際に通ってみると合点がいくのである。タットワンから出て、バットマンへの分かれ道までの間、計3回の検問。いずれも荷物チェックまでには至らないものであった。
 02年、カフラマンマラシュからマラテヤを抜け、エラズーからディヤルバクルに入った。エラズーからトゥンジェリまで、ドルムシュで1時間半。まだ、ここは抜けていない。トゥンジェリには二の足を踏んだ黄紺だが、ビンギョルに入って、ビンギョルからディヤルバクルに抜けてみようと思った。ビンギョルも、テロの活発なときには、何度も、そういう点でのみ聞いたことのある町だったからである。エラズーからビンギョルへ抜ける道、ビンギョル近くになってくると、ホントに東へ来たという感じがする。町へ入るまでは検問は、確かなかった。03年にも通ったが、このラインはタットワンまで、検問をやってない。だが、町で、ホテルで、とっても貴重な経験をしている。まず、ホテルにチェックインすると、パスポートを預からせてくれと言う。わけを尋ねると、ポリスによるチェックがあるという。ならば、ポリスが来れば言ってくれ、そのときパスポートを持っていくからと応えると、フロントはあっさり了承。夜、ネットカフェで遊んで帰ってきたのが、7時半頃。また、同じやりとりをして、部屋に戻る。ものの30分程して、フロントから電話。黄紺は、この帰ってきたタイミング、電話のかかってきたタイミングからして、ホテル側が、ポリスに通報したと思っている、いや通報しないとダメなようにさせられていると思っているのだが、部屋を出てエレベーターに乗ろうとすると、わざわざ下からもお迎え。パスポートを持ってきたかと念を押す。その男に聞いてみた。「宿泊客全員に、こんなコントロールがあるのか?」、回答は「外国人だけ」ということでした。黄紺は、そのホテルのロビーで、職務質問を受けるハメになってしまった。一通りパスポートに目を通してからの質問というのは、大したものではない。入国の日、出国予定日、どこを通ってきたか、どこへ行くか、目的は? その程度のありふれたものだった。これが、職務質問の1つ目であった。翌日、予定通り、ビンギョルからディヤルバクル行きのドルムシュに乗る。これが、山の中。計4回の身分証明書チェック。このとき思ったこと。このチェック、全部PC入力してる、ないしは控えを取っていると感じた。戻ってくるまでに、ここのチェック、時間がかかったのである。他よりは、そして検問所ごとに、その中から抜けたやつがいないかチェックしてる、恐らくこの勘は当たっているでしょう。そして、その内の1回、黄紺は、もう1人の男とともに、検問所に、車から降ろされ連れて行かれたのでした。またしても職務質問。聞かれた内容は、ほぼホテルでのときと同じ。このときも、明らかに外国人をターゲットにしていた。ビンギョルからディヤルバクルは、ドルムシュで、約4時間の行程。知らずと、一種の家族的雰囲気が出来上がっていく。もちろん乗客や、特にカプタン、即ち運転手の人柄によるであろうが、そのときは、そういった条件が整っていた。丁度W杯の後だったこともあり、黄紺を見て、韓国人だと言い続けるカプタンが、そのときも、「韓国人が戻ってきた」「いや、ちゃうちゅうねん」のやりとりを聞いて、また盛り上がる乗客。なんか、検問に会うのを楽しまなきゃしゃーないの雰囲気、なんか救われた感じがしたものでした。
 03年夏、黄紺は、ついにハッカリに入った。ハッカリについては、思い出がある。99年の暮れにトルコに入り、年明けに、イスタンブルで、トルコの子どもたちを撮り続けられている写真家のE氏らと呑んだことがある。黄紺と会う前に、E氏は、厳冬のエルズルムからハッカリへと回ってこられていた。このときE氏から聞いたハッカリのコントロールの様子が凄まじかった。ホテルに投宿するとポリスが現れる、ホテルから出かけようとすると、どこへ行くのか尋ねられる。出かけたら出かけたで、その先にはポリスが待ち構えている。ホテルは、通報の義務を負わされていたんだろう。なんとも凄まじい話であった。それから2年半が過ぎていた。EU加盟を控え、人権問題が、大きな話題にならざるをえないトルコで、この2年は、とても大きな年月ではないかと思い、イラク戦争の後だったが、ハッカリに入ってみた。ワンからダイレクトに行けば、3時間半の行程。検問は3回。全て身分証明書のチェックだけであった。往復計6回の内、1度なんかは、車内で集めた身分証明書を、車から降りるなり運転手に渡したふしがあった。これは、車内の他の客が言ってたこと。ハッカリのなかでは、トルコ国旗掲揚・降納式という時代錯誤的なセレモニーが、日曜日に行われてはいるが、黄紺自身には、E氏が体験されたような、猛烈なコントロール攻勢はなかった。ただ、ハッカリからワンへの車内、検問が行われた直後、1人の男が黄紺に尋ねた。「日本で、こんなことやってるか?」「いや、ないよ」、その後、その男は、次のように言った。「ここは、トルコじゃないんだ。だから、こんなことやるんだ。ここは、クルディスタンなんだよ」と。
 イラク戦争で、日本でもクルド問題が、マスコミで取り上げられるようになった。世界は、クルド問題を知るようになり、目が注がれるようになってきた。だから、トルコ政府も、EU加盟の間に合わせ的な政策では、世界を説得できない、ましてやヨーロッパを説得できないはずである。そのようななか、こういったコントロールのないトルコを、節に望むものである。[29]へ戻る





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