忙中閑あるかな? 黄紺の日々


トルコのこと、キプロスのこと、こんなことを主に、日々思うこと。ときどき、韓国のこと、 日本のことも混じるかも? 仕事に忙しくっても、頭のなかは、トルコのこと、キプロスのこと考えてる。 頭のなかは、いたって長閑。それが、、、、、、

黄紺、なのさ。





2001年7月 7日(土)午前3時52分

 思い出話を書き出すと楽しくってしかたないので、また今日も書いてみる。トルコ語教室の何が楽しいかというと、いろんなキャリアを持った人たちが、全く利害関係の何もないなかで、ただ一点、“トルコ”というその一点で結ばれたことである。特に学生さんよりも、社会の辛酸をなめ尽くしたいいおじさん、いいおばさんにとって、このようなシテュエーションでの、人との出会いは、最早考えられないものになっていたようで、ホントに一期一会の出会い感があった。次に、各自トルコ遍歴には、多少の温度差があったが、今ではなんでもないことであっても、一つ一つのトルコ体験を聞くことが、どんなに新鮮なことだったか! 最初のN先生が、自分が着てきた服を、「これは、トルコで買ったものよ」の一言だけで、普通にトルコで生活を送ってるんだなどと、変な感激をしたものである。そうそう、「こないだ、バイラムのお祝いの電話を村の人たちにしたの」と、ちょっと近所に住む友人に電話をしたかのように言われたときも、なんか普通に、全く普通のトルコの生活を、日本で起こってる出来事と同じように喋られるのに、舞い上がっていた自分がある。初級クラスが始まって半年ほど経ったときだったと記憶しているが、但し中途入学の黄紺にとっては、3ヶ月後だったが、今は「?」のI氏が音頭をとって、初級クラス2クラス合同の「トルコ談話会」のようなものを持ったことがあった。そのときのI氏は、なんと真面目な方に見えたことか! 会の次第も整然としており、VTR上映あり、遊学経験談報告ありの、なかなかどうして立派なものだった。そのとき、黄紺は、まだトルコ歩き1人旅をしてないときだった。「?」のI氏と一緒に行くのも、この4ヶ月後のことである。その談話会で、ある人が、「毎日、キョフテばかり食べてるわけにはいきませんからねぇ」と、N先生に向かって、したり顔で言われたことにも驚いた。今だったら、「何言ってんだ、この女」ぐらいにしか思わないが、当時の黄紺は、「えっ、ぶらっとトルコって、行けるんだ。いや、行ってきた人が目の前にいる」っていうことで、これまた感激していた。そうなんです、黄紺は、このときの気持ち、大切にしてるんです。普通に生活しているように、もちろんトルコで生活しているように、日本でトルコを語りたいんです。「日本で」というのは、諸般の事情で、日本を離れられない黄紺にとって、「日本で」しか、今は語れないんです。「じゃ、今度、イスティクラルのメフィストで、何時に」なんて調子で、大阪で待ち合わせるように待ち合わせ、会えば「やったね、フェネル。ガラタサライなんて目じゃないよ」なんて話を、梅田のどこかのカフェでし、ときには、「FPの解散命令は、果たしてEU加盟に、どのように影響するか」なんてお堅いネタを、ジュンイチロー総理がどうのこうのと同じように話したいのです。そのなかには、絶対、ヒット・チャート・ネタは抜かさずに、ね。こんな話、「あなたは、どうしてトルコに興味があるのです」と問われたときに言ったら、もうそれだけで、話はブチ切れてしまう。「もう、こいつには、ついていけないよ」ってことが読みとれる顔をして、ブチ切れてしまう。それで、いいんだよ。別に、自分の楽しみ、人に分かってもらおうなんて、思ってないもーん。

(黄紺が最初に教わったN先生は、文化人類学が専門で、ゾングルダック近郊の村に、フィールドをするために入られていたことがある。当時大学院生で、全くと言っていいほど着るものに無関心であったN先生が、おめかしの必要性に迫られて着てこられたのが、上記のトルコ製のブラウスであり、スカートだった。だから、黄紺の頭には、そのときの出で立ちまで、インプットされている。同級生の間では、きちっとした格好してれば、なかなか綺麗に見えるのに、というのが定説であった。今や、一児の母親になって、大学で活躍中です・・・黄紺)




2001年7月 3日(火)午前3時31分

 先週の火曜日からの暑さは、尋常ではない。相変わらず、クーラーのない職場は、地獄の様相である。さすがの黄紺も、へばり気味で、週末が恋しい。「地獄の1週間」も、自分的に目途としていたこと2つができたので、完全に峠を越した。後は、時間に身を任せれば、「地獄」は通り抜けられる。
 最近、掲示板に、昔のトルコ語教室の思い出を思い浮かべながら書いたことがあったので、ついでにこちらの方で、思い出話を咲かせておきたい。今思い浮かべると、いろんな顔が浮かぶが、教室に参加した人の多くは、トルコ旅行に1度行ってはまったという人が、圧倒的に多かったような気がする。それに加えて、トルコ関係の研究をしようかという学生さんたち。この2つのタイプに、大きく分かれる。私などは、典型的な前者。それも、10月から始まっていた教室に、頼み込んで1月から途中編入させてもらった人間である。要するに、暮れにトルコへ行って、気に入って、やってみようとした軽いのりで始めたものである。黄紺は、大学時代、西洋史を専攻していた関係上、幾つかの言語をやらざるをえなかった。だから、何を抑えねばならないとか、どういう特徴を持つ言語か、今までやって来た言語と比較して、捉えることができた。そういうコンテクストで言うと、トルコ語は、比較的基本的文法は簡単で、極めて合理的な言語だった。母音調和だけは、唖然としたが、1ヶ月ほどで苦にならなくなった。要するに、口が勝手に覚えてしまったからである。ということは、結局、言いやすいようになってるだけであった。なーんだ、ハングルの文字ごとのリエゾンと同じじゃーないかと思ったら、自分の枠内で捉えることができた。1番の障壁になるだろうと予想したことが、こんなにもたやすくクリアーできたことが、黄紺を満足させていき、ますます意欲は湧いてきた。1年目のN先生は、月に1度作文を書かせ、半期ごとに試験をした。1年目の終了の試験で、アイシェ・ハヌムが99点、黄紺が98点、J子が97点だったことだけ覚えている、なぜか。打ち上げのとき、J子が、この話をしだしたような、そして、点数が明らかになったような記憶がある。そんなことより、右手に障害のある黄紺は、試験の時、時間内に答案を、全部書けたことの方が、印象に残っている。動かなくなってきている手を、何度か振り、にぎにぎをして、暖めながら書いたのが印象的だった。これだけ続けて字を書いたのは、手術をしてから、この試験の時と、今の職場に換わってきた年に、何も知らないで引き受けた仕事で経験しただけである。他との比較はどうでもいい、こういうことができるようになった自分が、嬉しかった。ましてやトルコに行こうなんて、こんな体になるまで考えなかったもの。だから、自分的には、比較をするなら、体が動かなくなった自分との比較はするけれども、他の人との比較をするなんてという違和感があったなぁ、確かに、あのとき。そう、あのときの顔ぶれで、今、定期的に顔を合わすのが、アイシェ・ハヌムだけか。I氏は、常に???の行動を、とっているのか? ときたま会う。T森も、最近顔を見てない。見て、なんぼのものではないけど、とにかく見てない。J子は生きてるのか? 日本にいるのか? JUNMATSU氏はお元気か? 一期一会とは、うまく言ったものである。(続く)




2001年6月30日(土)午前3時33分

 自分的には、今週の水曜日から、とりあえずは来週の木曜日までを、「地獄の1週間」と思っている。1年の内何度かある、ここまでにこれをやらねばならない、が、果たして間に合うだろうかという感触を持つときがあるが、今は、まさにその真っ最中である。今日、職場のPCの前に座って仕事をしていたら、大きな会議を終えて、新たな仕事に取りかかろうとしていたK氏も、同じようなことを言っていた。恐らくこれだけの人数が働いている職場で、まして今時の日本で、クーラーのない職場ってないやろうと思う職場で働いてるものだから、この時期に仕事が集中するのはこたえる。これは、クーラー対策のために上着をもって行かねばならない職場で働いておられる方には想像もできない過酷さである。こういったことで時間を気にしながら動き回ってる者もおれば、時間的制約があるにもかかわらず、マイペースで動いている御仁もいる。不思議な職業である。基本的に管理されるのを嫌い、またされれべきでないと思う職業なのだが、だからといってという場面には、よく出会う。まあ、この職業、いろんな人がいて成り立つのだから、全てをコミにして動かなきゃならないのだろうが、それでもねって感じになることはある。ま、自分が、そう思われないようにだけは気を付けよう。
 この間、1番ネックになりそうな「余計な仕事」は、今日、一応目途が付いた。これがダメなら、明日のK氏のクラスは、休もうか、いや休まねばならないと思っていたのだが、そこまでしなくてもいいのは、とても嬉しい。でも、明日の授業のプログラムは、正直言って気が進まない。自分的には、K氏の提案した「言い換え」は、自分でする練習の一つと、黄紺は思っている。自分で、いろんな言い回しを想定して、独り言で練習する範疇だと思っている。この提案をK氏の口から初めて聞いたとき、さすが日本的感性を会得したK氏らしいなぁと、瞬間的に思った。だから、しゃーないなぁと思っている黄紺です。手取り足取り、おんぶに抱っこ、抱っこすりゃ、飯食わせろ的なんだもの、それを求める心っていうのは。てなことで、仕事でダメなら、早々と結論だそうって、思ってたんだ。




2001年6月29日(金)午前3時54分

 もう一昨日のことになるが、出張で交野に行く機会があった。以前、と言っても、もう7年が経過してしまおうとしているが、このあたりは、仕事の関係で、よく通ったものである。ま、そういう意味では懐かしい。それだけではなく、黄紺の好きな大阪の一つである。同じ交野でも、学研都市線(旧片町線)は、昔の面影を少しだけだが残している。そこで、いつもなら、枚方経由で帰った方が早いのに、わざわざ田辺経由で帰ってみた。藤阪あたりの雰囲気は、とってもいい。王仁公園が駅前にある関係か、緑が随分と多い。それに調和したかのように、田園風景も頗る心地よい。やがて長尾を過ぎる。つい15年ほど前なら、ここから山奥に入るという感じがしたものだ。ところが、今はもうしない。昔はなかった松井山手の駅あたりなどは、山ン中という感じなど更々ない。大住しかりである。田辺に至っては、古くさい駅舎が工事中だった。恐らくどこにでもあるものになるのだろう。近鉄まで歩く。踏切を渡ってすぐに、もうそこは、すっかりニュータウンである。ン十年前に、こんなとこに住むのは、絶対いやだと思った「ど田舎」田辺が、ちょっとした郊外のニュータウン化してしまって、もう随分と経つが、ここを通るたびに、昔の姿とだぶらせてしまう。
 人それぞれ、瞼に焼き付いた風景というものがあるのだろう。そして、それに感情移入をして、楽しむということがある。黄紺の場合、その瞼に焼き付いている風景の一つが、この街であるが、この街ほど、感情移入しないで見るというものは、他にはないだろう。ただ、昔を知ってるというだけで見る、恐らく唯一の町かもしれない。そんな田辺の駅前通にある「王将」で、晩飯食うぞと思って、一昨日は1日働くことができた。今は、それ程疲れている。




2001年6月27日(水)午前2時15分

 私の場合、外国語というもの話せるかなと言えるものは、トルコ語しかない。英語やドイツ語、韓国語なんかは、ちょっとは分かるけどの範囲を決して出ない。でも、そのトルコ語も、所詮トルコに住んだことのない私には限界がある。悲しいかな、英語とは根本的に違うのは、話すチャンスである。年齢的なものが、また耳が良くないなどというハンデはおいておいても、チャンスだけはどうしようもない。だから、トルコに出かける。黄紺がサッカー好きとか、音楽テープを集めてるとか、そんな楽しみを示しても、通常は無駄だと思ってるし、またたとえそう言っても、そこで話がとぎれてしまうのは100%受けあいだから、よくトルコに毎年のように行く理由を聞かれたとき、「いやぁ、トルコ語を喋りたいからですよ」と言うことにしている。そうすれば、知的好奇心をくすぐられる人は、トルコ語について、その特徴だの、いろいろと話を楽しんでくれる。で、これは、まんざらその場を取り繕ってるのではない自分があるのも事実である。やはり行くことによって、慣れて、実際に同じことを繰り返し言ってると、口から先に出てくると言うことは、必ずある。この感じを聞かれることがあるが、私は、言葉ではないイメージが浮かぶんだと答える。トルコ語を聞いて、一々日本語に訳して、次はこう言おうと思って、日本語で考え、次にトルコ語で言えばどうなるかなんて考えてたら、会話にならない。だから、喋ってるときというのは、頭の中にはイメージだけで動いている。自分の考えてること、相手の言ったことが。この感触というのは、自分的には、トルコ語しかない。だから、まがりなりにも、そしてトルコ在住経験のないにもかかわらず、そう言ってしまうのは、この感触のためである。
 黄紺のレベルでは、行きつ戻りつで、トルコに行って、若干のリハビリ期間を経過すると、そのような感触を取り戻す。が、日本に帰ってくると、ちょっと経てば、その感触は忘れてしまう。それの繰り返しである。特に黄紺のこの3年間は、そういう意味では、悲しい3年間であった。それができない、いや難しい状況に追い込まれてしまってるから、停滞も甚だしい。が、ときどき、ふっとあっちの世界に行ってしまうことがある。要するに、ときったまその感触を、日本にいながら持つことができるときがある。前節が長くなった。この感触を、先週の土曜日、いつもの土曜日のクラスで持つことができたのである。この日は、大阪の「コナック」を借りてのお勉強会。休みの土曜日だったので、体調が良かったこともある。1番の原因は、途中参加なので、今までは手控え気味だったのを、手控えなかったことにある。その原因は、一発目に喋ったトルコ語が、あまりにもひどいと自分的に感じ、ムキになって、加減をせずに、自分からべらべら喋ろうとしたことである。回りに関係なく、ムキになったのであった。そうなると喋る。アイシェ・ハヌムから、翌日電話をもらって、「昨日、1人で喋ってたね」と言われるほど、喋りになった黄紺でしたのです。お勉強会の2時間が終わって、Sさんが、日本語を喋ったのをきっかけに、「あっ、ここからは日本語やねんな」と、自分に頭の中で、日本語で言い聞かせて、日本語を喋り出したとき、初めて越えていた自分に気が付いた。アイシェ・ハヌムが、翌日、「やっぱり、トルコに長いこといんと、あかんねんね」と言っていた。うーん、こればかりは、そうなのかもしれない。でも、もうちょっと、話題を見つけてしゃべらんかいね。無理やりでも。そして、語尾をトルコ人に聞かせるために、特に言いにくい-ebil、-abilを付けて、反復練習しましょう。これやると、だいぶと違うよ。




2001年6月23日(土)午前9時26分

 今日は、可哀想な可哀想な黄紺の話です。今年の夏、トルコに行けないかもしれない。前に確か書いたと思うんだけど、8月8日出発、8月27日早朝帰国という飛行機を抑えていたのだが、これも、自分的には、あくまでも仮のスケジュール。でも、これからは、大幅に変わることなど、ないと思っていた。特に帰りの日は変わらないだろう、変わるのだったら、出発日が、1ないしは2日、後ろにずれ込むのだろうと考えていた。だから、敢えて帰国日を、少し仕事には食い込むが、無理してでも、そのようにしていた。が、である、いかげんにしろよ、ほんと、○○○よ! ここ2年続けて、よく似た日にしていた会議の日を、なんで、君たちの都合で、しかも、こんな遅くなってから、今までとは異なる日程に組み込んで知らせてくるの。8月20日に設定してきたのである。全く、崩壊。私の夏が、崩れていく。あわてて、飛行機の予約変更。恐れていたとおり、飛行機はとれない。また、お盆の帰国ラッシュにぶつかるものだから、値段が高騰。まいった。一応、今のところ、8月2日の出発(1日、他の出張、さぼってやる!)、8月20日早朝帰国のマレーシア航空が、エコノミーで、席は取りやすそうなので、第1希望。若干、日にちは短くなるが、少しエコノミーで、韓国ライフが付いてくるアシアナ航空が、第2希望。でも、こちらは、全てがウエイティングの状態だから、望み薄。もう、マレーシア航空にかけるしかない。でも、悲しい。○○○は、やりたい放題です。なんでも、前から。
 昨日、職場で、仕事の打ち合わせをしていたら、夏の予定を、お互い披瀝しあって調整に入った。2年前、K氏のアメリカ帰りの翌日、過酷な会議をしたのを、思わず思い出したが、そのK氏は、子どもさんの要望に添って、ヨーロッパ巡り。本人にとっては、4カ所も行ったところとか。果たして具体的にはどこか? また週明けに、聞いてみよう。今年度のニューフェースM氏は、8月の月末にニュ−ヨーク。ちょっと、あれっとも思ったが、もう年度始めから、このときに行けるように、用意周到に準備されてた由、やってくれます。W氏は、恒例の自然派。車を駆って、恐らく山ん中、駆け抜けるのだろう。で、昨日、九州の山へ行くとか言って、週末の有効利用を宣言してそそくさと帰ったS氏は、どうなのだろうか? 予定を聞けなかっただけに気になる。が、とりあえず、皆さんの予定を聞けば聞くほど落ち込む黄紺なのです。「今年は、いつから?」と、トルコに行くのが当たり前として聞いてはもらえるのだが、「実は、○○○が、こんなことで、、、、行けないかも」と言っても、あまり同情してもらえそうでない。それだけ行き過ぎてるんだろう。HPで、トルコに13回も行ってると公開したことの、マイナス効果か? 自戒。いや、自壊。




2001年6月19日(火)午前6時14分

 早々と、丸1週間が過ぎてしまった。この間黄紺は、2回好きな落語会に行け、但しその内1回は、疲れで眠っていたけど、それからK氏のトルコ語教室へ行き、その帰りに実に久しぶりに、チベット料理を食べに行った。アイシェ・ハヌムら、かつてトルコ語教室の同級生と行った記憶だけあったので、このとき一緒だったアイシェ・ハヌムにいつだったか問うと、あれはJ子の旅立ち記念だったということ。さすが記憶は天下一品のアイシェ・ハヌムだ。あのときだったのか。J子の旅立ち、あのあとおもろいこといろいろあったなぁ。初めて、外国で待ち合わせたのが、J子だった。イズミールの某ホテルロビーで待ち合わせたら、ホテルの入り口に立つ女2人、偶然同じ時間に待ち合わせの場所に現れ、そんなことになったっけ。そうそう、1週間イズミールに滞在し、イズミールから北キプロスまでとんだ、あの前か! あのときチベット料理店「ラムゼン」に集った人、どうしてるのか? 今確実に連絡を取り合い、トルコ語教室で、再び同じ机に着いているのは、アイシェ・ハヌムだけだから、なんか、そんなに無茶苦茶時間が経ったわけではないのに、随分変わってしまった。なんか、そんな感慨に耽る黄紺でした。でも、久しぶりに食べるチベット料理のおいしさに、いつしか目の前の料理に、うつつを抜かす黄紺でもありました。




2001年6月12日(火)午前6時06分

 昨晩、呑んで大失態を演じてしまった。前にも書いたように、この間来ていた実習生の最終日が、昨日であり、そのためN氏が、実習生を送る会を、要するに飲み会を設定してくれたのだ。いつも通り、最初は少しビールを呑んで、後は熱燗を注文するという黄紺パターンで呑んでいた。その店の鯖鮨がやけにうまく、飲み始めからおなかにどーんとくるものを食べたので、結構この黄紺パターンの飲み方は正解だった。これまたいつものように、2合徳利を飲み終わるころになると、もうyeter状態に近づいていく。お酒も食い物も。ただ、途中トイレに行ったとき、やけに顔が赤いのが気になったが、それがまた気分的に影響したのか、いつもと同じ酒量なのに、酒のまわり方が、いつもより大きな気がしていた。今から思うと、そんな風に考えていたなと思い出す。でも、そんなたいそうなこととは思っていなかった。確か、9時10分前ほどに店を出て、そのまま枚方駅へ。大阪方面へ帰る人と別れて、W氏とY氏と一緒に、京都方面へ。楠葉行きが来たので、3人で乗る。3人で芝居の話をしていた。W氏が、GW期間中に、「西遊記」ネタで、手塚治虫ヴァージョンのものを下地に、構図を書き上げているという話で盛り上がっていたと思う、確か。まもなく楠葉に着く。Y氏は、ここで下車。W氏は、普通に乗り換えるので、ここで別れて、黄紺は、すぐに来た急行に乗る。昨日は、朝刊がなかったので、コンビニで買ったスポーツ新聞があったのを思い出し、少し読んだ記憶がある、確か。記憶は、ここまでである。次に目が覚めて、電車の窓から、それも、何やら変な感じがしたので、窓の外を眺めたようだ。そしたら、「出町柳」。ん? 電車が止まっている。あっ、そうか、大阪へ戻るんだ。それで、停車をしてるんだ。このまま乗ってれば、いいか。こんなことを考えた記憶がある、確か。記憶は、また、ここで途絶える。次に、気がついて、外を見ると、「寝屋川」。えっ! やってもた! あわてて飛び降りる。久しぶりの寝屋川、駅の構造が分からない。これは、情けなかったぞ。最後は、駅員さんに聞いて、大阪方面からは、一旦、外に出ないと、京都方面に出られないということを思い出す。いくら駅が新しくなったといって、12年間通った駅なのに、この低駄落。京都方面に回ると、すぐに急行が来る。この急行で、香里園まで行き、そこで普通に乗り換える。座っていけると思ったからである。昔、よくやった方法である。今度は起きてたぞ、淀まで。淀駅に止まったとき、何気なく横を見ると、1人の酔っぱらいが、座席にごろんと横になっている。それを見て、黄紺は、「あれは楽そうだ」と考えてしまった。鞄をマクラに、座席にごろーん。気持ちよかった。それから他は考えなかった。でも、今度は、もう十分に寝ていたためか、僅か2駅目の「伏見桃山」で、目が覚めた。今度は、必死になって起きてたのだ。墨染に着いたら、11時20分。実に、枚方を最初に出てから、2時間半。大遠征後の帰宅であった。「枚方」→「出町柳」→「寝屋川」→「墨染」、この間、2度も、寝ながら「墨染」を通過していたのだ。情けない。クスン。




2001年6月11日(月)午前0時57分

 あっと言う間に週末が過ぎ去ろうとしている。連休のはずなのに、あまりにも慌ただしすぎる。昨日の土曜日は、日本トルコ文化協会のトプカプ・サロンに顔を出した。元々初対面の人と喋るのが苦手な黄紺なので、今回のような催し、即ちトルコにある対日友好協会が集団となって、日本へ来るというのは、どう応対をしていいか分からず、まことに持って苦手である。たまたま、連続して出ている水曜日の特別授業に顔を出したとき、衝動的に申し込んでしまい行かねばならなくなったというのが、正直なところである。会場で会ったK氏から聞かされたところに拠ると、在トルコ日本大使館がかなり動いて、外務省のお声掛かりでの来日とか。それぞれコメントを述べておられたが、日本のアニメ紹介に尽力をされておられる方のように、今まで聞いたことのないような斬新な活動をされている方がおられるかと思いきや、三笠宮訪土のおり、ホテルでかいがいしく動く三笠宮を見て、日本に関心を持ったというワケの分からないコメントを言う人もいたりで、ちょっと玉石混淆気味。K氏曰く、「私なんか、あの人たちの何倍も友好に努めているよ」、ごもっとも。したり顔で言われることに、閉口気味なのが、よく分かるK氏のコメントでした。
 会がはねてから、授業までの時間を、K氏とお茶をしながら、サッカー談義をして過ごす。この2日間で、1番充実の時間だったかな?  だって、その後の授業、ちょっと酩酊気味。失礼失礼、です。おまけに、来ると言っていたアイシェ・ハヌムはダウンとかで、お休み。HベイとHさんは、トルコ。Kaさんは、トプカプ・サロンには来ていたのだが、塾のバイトで去っていくし、、、てことで、開講以来最少人数の3人。終わってからは、この時間帯恒例の飲み会。K氏の彼女も呼んで、先斗町の床で呑む。K氏が連れて行ってくれたんだが、行ってみると、黄紺は、25年前から出入りをしているお店。いろいろと思い出の詰まったお店。この日の飲み会も、そういう意味で、また記憶に残しとこ。K氏、来年40歳到達とか。それを聞いて、「そろそろ決めないとね」と言うと、「生活基盤でしょ?」の応え。うんうん、分かってることは分かってる、んだ。でもねぇ、ここまではいいんだけど、うちの息子と同じで、この先が大変。でも、K氏も、もう40歳なんだ。15年も居て、果たして戻れるんだろうか? なんて余計な心配をしてしまう。黄紺の15年前、なんだ、ついこないだじゃんかよ。歳を取るって、ホント、時間が加速度的に早くなることなんだね。




2001年6月9日(土)午前6時22分

 今、実習生を預かっている。その面々が、なかなかおもしろい。昨日も、その内の2人と、ついつい話し込んでしまい、黄紺のアフター5の予定は、すっかり変わってしまった。なぜ、そのようなことになってしまったかと言うと、その2人が、海外経験が、実に豊富なのです。先ず1人は、以前ここにも書いたことのあるTくんである。シルクロード・マンの彼は、自らの旅行話を始めると、俄然熱を帯びる。なかでもおかまネタをやらせると、老若男女、思わず顔を見合わせ、苦笑いをせざるをえない。最近披露したところでは、パキスタン・ネタがグーであった。もう1人は、北京語を話せる日本人の父親と香港人の母親から生まれ、シンガポールと香港在住経験を持つYさんである。Yさんは、その関係で、広東語ぺらぺら、英語もいけるという逸材。他の家族は、今も香港で生活をしていて、従ってYさん1人だけが、日本で生活している関係上、頻繁に香港に帰っているという、実に羨ましい境遇。結構香港好きの黄紺は、ローカル・ネタを含め、大いに盛り上がる。更に深センの治安の悪さについて、「へーっ」「あっ、そんなの?」なんて、相槌打ちながら聞き込んでしまった。ところで、やはり中国と言えば、食の話。その中で、記憶に留めるためにメモっておくと、へびは、旧正月のようなお祝いのときに食べる食材として、重宝がられるものであること。犬は、北の人間が好んで食べるものであり、広東や香港のような南の人間は、敬遠するものであるということ。この2つは、とっても興味津々であった。果ては、シンガポールとマレーシアの中国語の話となり、それらは、広東語が中心とか、、、なんて話で、シンガポールのマーライオンがしょうもないという話になったとき、件のTくんが、横を通る。彼によると、なんと5mのマーライオンが、30mとなり、場所も変わっているという。「世界の3大くだらんもの」からの脱出ですと言うTくんの話を聞いて、も一つびっくり。彼は、黄紺と一緒で、シンガポール・トランジットの際、無料市内観光に参加して、見たとか。黄紺は、そのツアーに参加したのが、2年前の夏だから、それ以後の変化なのだろう。黄紺の見たマーライオンは、まだ川から見上げた5mものだったので、、、。等々、そんな話をしていると、周りの人の動きに変化が見られだす。すっかり帰り支度なのである。そそくさと話を切り上げると、黄紺のアフター5は、すっかり予定が狂ってしまっていましたとさ。




2001年6月8日(金)午前5時22分

 もう2日前のことになってしまうが、記憶にとどめるために書いておこう、と言ってもたいそうなことではない。(↓)の出張の日の顛末である。いつものように鶴橋駅から歩いて10数分のところへの出張。ところが、今回は、なんと4時10分に仕事完了。とっさに、私の頭の中をよぎったのは、「行ける、時間がある」だった。その瞬間に、もう仕事は明後日の方向に行ってしまい、頭の中は、「アリラン食堂」。急遽予定を変更して、谷九方向ではなく、鶴橋方向へ早足で歩き始める。17〜18分で到着。が、がーん! なんと、カパル!! 「えーっ!」と心の中で叫んでる黄紺。全く予定外。うんと気合いを入れて、踵を返した黄紺は、今度は、久しぶりに「白雲台(ペグンデ)」に向かう。水曜日が休みのような鶴橋商店街の中で、同じ水曜日に開いていたのに記憶がある。が、が、またもや、カパル!! おいおい、黄紺をそんなに嫌うなよ。うんうん、2度気合いを入れて、これまた水曜日には開いていると知っている「釜山家(プサンチップ)」へ。やっと開いてました。だけど、ここ、アリラン食堂に比べて、高いねぇ。小皿も少ないし、値段そのものも高い。かつては、贔屓にしていたのだが、「福一」や「アリラン食堂」を知ってからというものは、行ってなかった。が行ってみると、案の定文句をたれてる黄紺なのでした。この日の注文は、ソルロンタン。お味は、そこそこなんだけど、やたら春雨多し。サービス過剰というよりかは、これは、ちょっと脱線気味か? でも、考えてみれば、日本で初のソルロンタン体験でした。今度、アリラン食堂でも食べて、比べてみようーっと、なんて考えてる黄紺なのです。
 こんなだから、京都まで戻るのも、余裕。Ba氏の特別授業は、平常授業の生徒さんが大量に押し寄せ、えらい盛況。見慣れた顔も、ちらほら。そこへ、なんと、お久しぶりの横着者と言えばいいのか、不埒者といえばいいのか、いや不届き者という形容がぴったりのI氏、登場。事務局のSさんが、早速、いやこのときを逃さずとばかりに、顔色変えて請求。何かって? それは、これを読んで分かる人だけが分かることなので、カット。Ba氏の授業体験は、私的には初めて。受けてみて、人がこんなけ集まる理由、了解。教材のおもしろさで来た人もいるでしょうが、Ba氏のキャラに惹かれて来た、特に女性は多いのでは、ね? 彼、一所懸命で、なおかつ日本語の問題とか、ちょっと助けないと、正確に言えば、生徒の協力があって授業が成立する部分がある。その手助け感が、一所懸命キャラと合わせて、そそる部分がある。ギャラリーが、多いはず、納得。この日は、K氏、B氏、ドクトル・今松氏も傍聴。B氏の生真面目さが光る。B氏といい、Ba氏といい、完全にトルコ人の一面を表しすぎ。これも、嬉しい発見である。それに引き替え、K氏は、一般受けするトルコ人イメージを体現しすぎ。日本人には、こちらの方が、間違いなくうける。その受けを感じてか、K氏、もう10数年になるのか、日本滞在が! 完全に、オーヴァー・ステイ状態。そろそろ強制送還しないとね。最近、フリーターを名乗ってる。
 授業が終わって、おっさん2人は、そそくさと退散。メイハネで、久しぶりに呑む。が、その前に確認怠りない黄紺は、I氏に念を押し、大丈夫と知ってから、同行。I氏、今夏は、トルコとエジプト、だそうである。まぁ、臆病なわりに大胆なI氏ならではの、企画。ま、がんばってな。てなことで、泥酔気味。太り気味の黄紺です。




2001年6月6日(水)午前6時8分

 この頃、よく眠る。夕べも、8時頃に寝てしまい、目が覚めたら、午前3時半。7時間半も寝てしまっていた。これは、寝過ぎと思った黄紺は、まだ寝ようと思えば寝られるのに起きて、HPの更新にいそしんでいた。結局、この時間まで、PCの前に座っていたので、今日は、このまま寝ないで仕事に行くつもりだ。まあ、よくあることだが、いつももっと寝てないで、いや寝ようとしても、寝られないで、そのまま仕事に行くというパターンが多いが、今日は、7時間半も寝たという自信は、実に大きい。
 週の半ばと言えば、本来は、あまり元気のないところだが、昨日は、警備員の仕事で、ずっと入り口に座っていたか、立ちっぱなしの状態だけしかやってないので、元気である。だから、夕べ、なんであれだけ寝たのか、不思議なのであるが、ま、それは、今までの疲れがたまっていたということにしておきましょう。いやいや、そんなことはさておき、早くも水曜日が巡ってきたのである。今日も、出張の日なので、日本トルコ文化協会の特別授業に、行けるんだ! まず、それが嬉しいのだ。だから、ラハトな気分で、夕べ、よく寝られたのか?  でも、また大遠征である。大阪市中経由で京都行きである。先週のように、同じ大阪市中と雖も、南の方じゃないので、そう、鶴橋界隈だから、遅刻をしないどころか、またまた谷九の韓国料理屋で、クッパを食べていくんだぞ。今日は、カルビ抜きのクッパを狙っている黄紺なのです。カルビに味が付きすぎていて、クッパだけのお味を、1度試してみようと考えているのだ。だから、今日は、黄紺の好きな韓国とトルコと、両方とも楽しめる日なのです。だから、うきうき気分が倍増してるって、わけ。その前にしなきゃならない仕事のことなんか、完全に吹っ飛んでいる。それで、いいのです。だって、職場へ行けば、出張へ行けば、絶対に仕事のこと考えなきゃならないんだもの。それにそれに、今晩は、マケドニア戦の日。家へ帰ってから、明朝にかけてまで、今日は、楽しみが残っている。まことにもって、いい日なのだ。







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