2001年7月 7日(土)午前3時52分
思い出話を書き出すと楽しくってしかたないので、また今日も書いてみる。トルコ語教室の何が楽しいかというと、いろんなキャリアを持った人たちが、全く利害関係の何もないなかで、ただ一点、“トルコ”というその一点で結ばれたことである。特に学生さんよりも、社会の辛酸をなめ尽くしたいいおじさん、いいおばさんにとって、このようなシテュエーションでの、人との出会いは、最早考えられないものになっていたようで、ホントに一期一会の出会い感があった。次に、各自トルコ遍歴には、多少の温度差があったが、今ではなんでもないことであっても、一つ一つのトルコ体験を聞くことが、どんなに新鮮なことだったか! 最初のN先生が、自分が着てきた服を、「これは、トルコで買ったものよ」の一言だけで、普通にトルコで生活を送ってるんだなどと、変な感激をしたものである。そうそう、「こないだ、バイラムのお祝いの電話を村の人たちにしたの」と、ちょっと近所に住む友人に電話をしたかのように言われたときも、なんか普通に、全く普通のトルコの生活を、日本で起こってる出来事と同じように喋られるのに、舞い上がっていた自分がある。初級クラスが始まって半年ほど経ったときだったと記憶しているが、但し中途入学の黄紺にとっては、3ヶ月後だったが、今は「?」のI氏が音頭をとって、初級クラス2クラス合同の「トルコ談話会」のようなものを持ったことがあった。そのときのI氏は、なんと真面目な方に見えたことか! 会の次第も整然としており、VTR上映あり、遊学経験談報告ありの、なかなかどうして立派なものだった。そのとき、黄紺は、まだトルコ歩き1人旅をしてないときだった。「?」のI氏と一緒に行くのも、この4ヶ月後のことである。その談話会で、ある人が、「毎日、キョフテばかり食べてるわけにはいきませんからねぇ」と、N先生に向かって、したり顔で言われたことにも驚いた。今だったら、「何言ってんだ、この女」ぐらいにしか思わないが、当時の黄紺は、「えっ、ぶらっとトルコって、行けるんだ。いや、行ってきた人が目の前にいる」っていうことで、これまた感激していた。そうなんです、黄紺は、このときの気持ち、大切にしてるんです。普通に生活しているように、もちろんトルコで生活しているように、日本でトルコを語りたいんです。「日本で」というのは、諸般の事情で、日本を離れられない黄紺にとって、「日本で」しか、今は語れないんです。「じゃ、今度、イスティクラルのメフィストで、何時に」なんて調子で、大阪で待ち合わせるように待ち合わせ、会えば「やったね、フェネル。ガラタサライなんて目じゃないよ」なんて話を、梅田のどこかのカフェでし、ときには、「FPの解散命令は、果たしてEU加盟に、どのように影響するか」なんてお堅いネタを、ジュンイチロー総理がどうのこうのと同じように話したいのです。そのなかには、絶対、ヒット・チャート・ネタは抜かさずに、ね。こんな話、「あなたは、どうしてトルコに興味があるのです」と問われたときに言ったら、もうそれだけで、話はブチ切れてしまう。「もう、こいつには、ついていけないよ」ってことが読みとれる顔をして、ブチ切れてしまう。それで、いいんだよ。別に、自分の楽しみ、人に分かってもらおうなんて、思ってないもーん。
(黄紺が最初に教わったN先生は、文化人類学が専門で、ゾングルダック近郊の村に、フィールドをするために入られていたことがある。当時大学院生で、全くと言っていいほど着るものに無関心であったN先生が、おめかしの必要性に迫られて着てこられたのが、上記のトルコ製のブラウスであり、スカートだった。だから、黄紺の頭には、そのときの出で立ちまで、インプットされている。同級生の間では、きちっとした格好してれば、なかなか綺麗に見えるのに、というのが定説であった。今や、一児の母親になって、大学で活躍中です・・・黄紺)
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