忙中閑あるかな? 黄紺の日々


トルコのこと、キプロスのこと、こんなことを主に、日々思うこと。ときどき、韓国のこと、 日本のことも混じるかも? 仕事に忙しくっても、頭のなかは、トルコのこと、キプロスのこと考えてる。 頭のなかは、いたって長閑。それが、、、、、、

黄紺、なのさ。




2002年 2月 2日(土)午前 3時47分

 またしても、alem-fmのサッカー中継を聞きながら、書いている。今日は、違うのだ。今、まだ、前半が終わってないのに、フェネルバフチェは、コジェリを相手に、もう3点も入っちゃってるんです。久し振りです。こんなに景気がいいのは。今、ここで、前半が終わった。トルコのラジオによるサッカー中継は、おもろいというか、日本のそれと違うところがあり、おもしろい。まず、ホントに試合開始直前にならなければ、試合会場にマイクが入らないのである。そして前半が、今のように終わると、あっと言う間に「ホシュチャ・カルン」である。これが分からないで、なまじトルコ語を知っていると、「あれっ、試合終わったぞ」となってしまう。インターヴァルは、一切サッカー中継とは関係ないニュースが入ったり、音楽が流れたりと、到底インターヴァルとは思えない雰囲気となる。そして、ホントに後半戦が始まる直前に、また試合会場にマイクが戻る、という具合である。そして、試合中は、ひたすらアナウンサーが、試合の流れを流すだけで、解説者なるものは、放送には登場しない。そして、ゴールが決まった瞬間も、絶叫型で、何度も「ゴール」を繰り返すわけではない。でも、ゴールが決まると、自らの興奮やら緊張が、そのまま伝わる言い方をしてくれる。シンプルで、なかなかグーですよ。Show-Radyo の方は、アナウンサー氏が、早口すぎるので、黄紺は、分相応なalem-fmを愛用している。今日のインターヴァルは、ニュースと、それが終わると、今、ケナン・ドールの「Kime Ne?」が流れているという具合だ。その内、後半が始まるでしょ。
 もう、土曜日が始まっているが、今日は、晩、「コナック」へ行くことになっている。K氏の教室の、「コナック」開催の日に、食事だけでも一緒にと招待を受けたのだ。丁度、夕方まで仕事があるので、終わって駆けつけると、頃合いの時間であることもあって、快諾した。10月以来だから、ほぼ3ヶ月ぶりだ。この食事会に参加するのは。K氏と、ゆっくりサッカー談義をしたいけど、フェネルの調子がこれでは、また分が悪い。CimBomの弱みを探しておかないと、いかんのじゃ。でもね、日本で、トルコ・サッカーの話できるの、ないからね。一方で、黄紺にとっては、至福のときなのです。と思いつつ、癪なんじゃ。そのためにも、フェネルバフチェ、頑張ってね。このままじゃ、Efsane nereye gitti?、、、じゃ。




2002年 2月 1日(金)午前 5時18分

 (↓)のユルマズの項は、訂正をしなければならない。彼も、クルド語教育には「ノー」を表明してしまった。昨日、トルコ議会では、なぜかMHPのアクサライ選出の議員が、「クルド語教育はノー」で、「クルド語TVはOK」」の心を質問したようであるが、連立政権は、どのように応えたのかは、新聞には書いてない。質問だけ書いてあった。また、別稿で、ブルガリア訪問に出かける直前の、エセン・ボーア空港(アンカラ)では、エジェヴィット首相は、「クルド語教育ノー」を繰り返していたということなので、変節は見られていない。TVと教育、この2つを分ける心が分からないんです、こないだから。
 東へ行くと、完全にクルド語の世界だ。「なんでもトルコ」にも書いたことがあるが、日常はクルド語が闊歩している。そして、トルコ語も、もちろん通じる。トルコ語は、学校で習ったんだろうし、でも、不謹慎な言い方をすれば、バイリンガルばかりなので、とっても羨ましいのです、黄紺は。自分たちの言葉としてのクルド語と、Vatandasとしての共通語であるトルコ語を話せるのが。必要性からトルコ語を教えることを否定するつもりなどないけど、自分たちの言葉の読み書き、教えても、いいんじゃない?って、おかしいのかな? ヨーロッパに住むトルコ人に、宗教省の役人を派遣して、Vatandasの信教の自由を保障しようとしている国が、執る政策じゃーないよって思ってしまいます。あっちで求めて、こっちで、同じようなことでダメ出しをするというの、黄紺は大嫌いなのであります。二重人格じゃん、これじゃ。
 ミディエットで、こんなことありました。ドルムシュに乗ると、トルコでは、時々見かけることであるが、中学生ぐらいの男の子が、ギャルソンやってる。行き先や運賃など、トルコ語で聞くと、クルド語で応える。聞き返しても、クルド語で応える。横の親父が、注意をすると、車内がドッとくる。更に、「ヘイケル(像)のあるメイダン(広場)に行きたいんだよ」と言ってんだけど、「どのヘイケル」と聞き返す。すると、また、横から、「アタテュルク、だろ」って、その中学生クンにつっこみが入る。また、車内は、ドッとくる。中学生クンをからかうと同時に、アタテュルクをも揶揄している感触を、黄紺は、その車内のクルド人の笑いから感じた。それが、東部だ。彼らも、Vatandasじゃーないんですか? Vatandasだったら、同じサ−ビスをするのが、政府の仕事じゃーないんですか? こだわりは、老人癖の1つだと、職場でも、感じ入っている黄紺にとって、なんかエジェヴィットの老害のように感じるんだなぁ、このことを。




2002年 1月30日(水)午前 4時33分

 トルコでは、まだ昨日とはなっていないが、昨日、国家安全保障会議(MGK)が開かれた。この会議こそが、トルコの最高議決機関と言って、いいものである。大統領、首相、軍の最高首脳が、顔をそろえる会議である。だいたい先進国と呼ばれる国で、このような会議があれば、軍に対するシヴィリアン・コントロールを効かせるためのものであろう。が、トルコは逆である。軍が、政府をコントロールする場である。しかも、軍こそが、ケマリズムの最高の具現者であると自認して憚らないところが、ますますトルコを難解にさせている。事実上、エルバカンの失脚につながる2月28日のクーデターもどきの会議も、MGKでのことだった。MGKの機能を見ていると、最高権力者は、軍参謀本部長その人と言わざるを得ない。だから、EU加盟に向けて、EU側からチェックを受けた項目の1つに、このMGKの存在が上げられたのも故あることなのだ。にもかかわらずである。もう1つ言えば、同じくEUの最高度チェックの入ったキプロス問題が急展開をしているこのご時世にである。昨日のMGKは、クルド語による教育を、分離主義者の策動による要求と片づけてしまったのである。EU交渉の表に立つ1人である祖国党(ANAP)党首ユルマズは抵抗したようであるが、民族主義者連盟的な民族主義者行動党(MHP)党首バフチェリと民族主義者の看板を一方に持ち、中道左派をかかげるエジェヴィット首相、そしてもちろんテロ対策の前面に立ってきた軍は、分離主義者の策動と片づけてしまったのである。
 言語は、文化を最も集約的に表現したものである。そんなことは分かり切ってるはずであり、クルド人の存在を認めた後、当然起こりうるスケジュール的展開に、竿を差して、いったいどのような利点があるのか? 1つの流れに乗れば、やらねばならない読み込み済みの事柄に竿を差して、どのような利益があるのだろうか? ましてや、EU加盟に向けて、そのような外圧があってしか変われなかったトルコの一面を、今こそ、外圧のせいにして変われる絶好のチャンスに竿を差して、どのような得があるのか、黄紺には理解できない。当然のように、EU側の反発を招くだろう。そこであわてふためく姿を、イメージできない政治家どもなんだろうか? トルコへ行って、政治家の話になると、誰も信用してないけれど、これで、信用を回復したつもりなのだろうか? マフィアだと言われるユルマズが、空っぽと言われるエジェヴィットにたぶらかされた、それを軍が追認した、いや指導しただけなのか? 3000万人いるかもしれないクルド人、トルコの人口6500万? 7000万? いずれにせよ、大変な人口比率だ。Vatandasと言いつつ、そのVatandasの多様性を否定して、事実上否定して、何がVatandasなのか? 黄紺には分かりかねまする。今日は、酒が入ってる関係上、だいぶと、過激かも?




2002年 1月26日(土)午後 0時19分

 昨晩は、職場の新年会で、枚方で呑み、そして歌った。新年会と銘打たれていたが、黄紺の3年間のご苦労さん会と黄紺の後をしてもらえるWさんの激励会であった、事実上。と言っても、そんな話は、呑んでるときは、一切出なかったが。出ないだけ、この会をセットしてもらったKさんに、ひたすら感謝である。我々の業界、そして我々の職場、高齢化がどんどん進んでいる。それが改善される気配は、今のところ、ない。むしろ、それが進んでいく傾向にある。黄紺も、その真っ只中にいる。トルコで、emekliの話が、よく何気ない話として、話題になる。黄紺は、事情があって、25歳のとき、今の仕事に就いた。だから定年まで、35年ある。この話をすると、トルコ人は驚く、必ず。というのも、話を聞いていると、トルコでは、25年(?)が、定年の目安なのである。「?」を付けたのは、20年と言っていたかもしれないと、書きながらふっと思ったからである。今、便宜上25年としておこう。だったら、20歳で働きだしたら、45歳で定年である。45歳と言えば、日本では、ばりばりの働き盛りで、職場の中核を担っている年齢である。黄紺の後任者Wさんも、そのくらいの年齢である。でも、トルコでは、一般的にそこでリタイアである。ま、管理職を突き進む、経営にトップに立つ人たちは、そうではないと思うが、あくまでも一般的に言えば、そうなのである。
 よく、トルコへ行って、街中を歩いていると、手持ちぶさたに、街中で、チャイを飲みながら、談笑している親父たちの姿を見るだろう。最初、このことを知らなかった黄紺は、なんと呑気な人たちと言っていいのか、仕事がないのか、いずれにしても困ったことだと思っていた。ところが、街中で会う人たちと話していると、それがそうではないのである。彼ら多くが、定年を迎えた人たちで、日本の感覚じゃ、定年という感じのしない人たちなのである。マラシュでこんなことがあった。チャルシュ(市場)の一角にある、あるロカンタの前を通ると、例の如く歓待の精神よろしく、中へ招き入れられ、チャイをご馳走になった。マラシュというところ、そういう行動に、全く違和感がない。わざとらしさがない。だから、この街で招き入れられると、ついつい応じてしまう。その1つの出来事である。でも、どう見ても、他のロカンタの親父と雰囲気が違う。仕込みを、中学生ぐらいの息子に手伝わせている。この仕事を始めて、まだ1年も経ってないんだと問わず語りに語ってくれる。それまで、何してたんだと尋ねると、25年間銀行で働いてたのさと、あっさり応える。要するに、定年で退職した後、このロカンタを始めたという。じゃ、こんな仕事したら、定年後もらえる年金に影響あるんじゃないと聞くと、それは、そうではないらしい。だから、その気があれば、ロカンタなりなんなりして、第2の人生で稼ぎをあげることができるということであった。あーあ、黄紺には、これを真似できる元気ないだろうななんて、自分に確かめたのを、妙に思い出す。
 数年後、この3年間を振り返れば、自分の目に、どのように今の自分が移るのだろうか? でも、そのときの自分の状況に拠るだろうな。だから、今、とやかく言うのはよしにしておこう。少なくとも、自分が自分じゃなかったことだけは、確かなのだから、少しでも、いいように取れるようになってるかもしれないと期待しつつ、その評価は、先送りにしておこう、とりあえず。




2002年 1月25日(金)午前 3時24分

 alem-fmで、「ベシクタシュ vs ブルサ・スポル」戦を聞きながら書いている。ところが、この試合、いたって静かである。それもそのはず、この試合、「taraftarsiz(観客なし)」の試合なのである。ベシクタシュのホームで、ガジアンテップ・スポルと試合をしたとき、サポーターが暴れたため、その罰則で、このような試合をさせられているのである。観客、100人なんて、アナウンサーが、さっき言っていた。要するにマスコミ関係者だということだ。アナウンサー氏は、観客席の興奮がないなんて、わけ分からんことを言っていた。当たり前やなかいと、PCに向かって、突っ込んでます。酒呑みながら、これ書きながら、聞いている黄紺は。それが、さっき、日本酒を燗するために立った隙に、ベシクタシュが、1点入れてしまった。もう、サイテーである。黄紺は、この失態をよくする。トイレに立ったり、酒のアテを取りに行った隙に、点が入るということ。ところで、ベシクタシュ、今日も、イルハン・マンスズとアフメット・ドゥルスンのツートップだ。これは、アフメット・ドゥルスンが復帰したから実現した、なんとも新鮮なツートップだ。カルタル(ベシクタシュのこと、鷲の意味)ファンでなくとも、その新鮮さに、胸躍る。このツートップが組めれば、コカイン常習者ダウムといえども、監督業の魔力に、取り憑かれるだろう。シーズン始め、のたれ死にしそうだったベシクタシュが、これで、めっちゃ活気出てきたという感じだ。
 それに反し、今季の開幕戦で、このベシクタシュを見事に敗ったトラブゾン・スポルが、完全におかしい。アヴニ・アカルで、0:5の敗戦は、いかにもいただけない。黄紺は、このスタジアムで、1度だけ、実戦を見ている。但し、プレ・シーズン・マッチを。相手が、ギュヌシュハーネという2部のチームだったので、大した騒ぎにはならなかったが、正直言って、危なそうな、いつフーリガンになってもおかしくない連中が、スタジアムで顔なじみって感じで寄り集まっていたのを思い出す。フーリガン度では、このトラブゾンは、どうも札付きのようである。この事件の後、またしてもトラブゾンでの報道が目に付いた。今や、このトラブゾン・スポルですら、イスタンブールの3チームの選手供給源化しつつあるのが、気になる。いくら、トラブゾン・スポルが、かつての栄光があろうとも、黒海沿岸有数の都市のチームにせよ、トラブゾンという町、高々20万ちょいの町である。経済力では叶わないのだろう。どんどん、この3チームに流れる。考えてみれば、フェネルバフチェのキャプテンのオギュン、不動の代表選手アブドラハ、それにケガで痛んでいるオクタイ、これ、全部、元トラブゾンだもんに。なんか、トラブゾン・スポルのサポーターのストレス、こんな風に見てみると、分からんでも、ない。でも、な。金、あるのかな? あんなけ、やられて。そんなこと、心配している黄紺なのであります。




2002年 1月23日(水)午前 2時20分

 もうトルコから帰ってきて、半月ぐらいが経ってしまった。大雪のことも、もう遥か昔のこととしか思えなくなってきているが、ふっと、こないだのトルコのことを思い出すきっかけが、ひょんなところから出てきた。しょうもない話なんだが、問題は、猫である。もう2ヶ月ほどになるだろうか、ヨメさんが、野良猫を餌付けしたとかで、いや餌付けしたどころか、家に持ってかえってきて飼いだしたのである。それも、息子の部屋に檻を置いて。それからというもの、息子の部屋に入ると、臭うのである。早い話が、「臭い」のである。ところが、息子はといえば、どうもその猫(名前を「フク」という)が気に入っているらしい。いつの頃か、こいつは自分に1番なついていると自慢までし出したものだから、黄紺が、息子の部屋に入っていって、「臭い」と言うと、途端に機嫌が悪くなる。「フク」の方は、最初は、やはり元野良猫らしく、警戒心が強かったのが、息子が、名前を呼ぶと、「ニャー」と鳴き出している。おまけに息子に抱かれて、のんびりしてくさる。でも、本当に、臭いのである。
 ところが、最近、ようやく、その臭いわけが判明したのだった。黄紺の勝ちだ。この「フク」の野郎が、トイレット・トレーニング不足で、するべきところでせずに、部屋の片隅で用を済ましていたというのだ。おまけに、息子の机の上にあるPCの横で、用を済ましたというのである。「おい、PCは、どうやったんや?」と聞くと、「ちょっと濡れたかもしれん」。おいおい、そこまで気がつかなかったんかい? 気がついた後、雑巾で、その跡をごしごしやったらしい。が、とれない。で、そこで、トルコの登場なのである。あーあ、情けない。こんなところで、トルコが登場するなんて! あんまりじゃ。その臭い消しに、黄紺が、ウスパルタで買ってきた、バラの香り付き石鹸が使われているのです。息子曰く「この石鹸、ええでぇ。ええ臭いするから」。あほたれ、猫の臭い消しに、それを土産に買ってきたんと、違うわい。これじゃ、せっかくのバラの香り付きの石鹸が、キムコ扱いだ。「臭いで、みぃ」と言われないでも分かってることを言う。でも、石鹸を取り上げて嗅いでみた。買っては来たが、そのときまで、臭いを嗅ぐということをしてなかった黄紺は、このとき初めて、バラの香りの石鹸の香りを嗅ぎました。うーん、なかなか、いいぞ。でもな、猫のあれの臭い消しだと考えると、許せない。これは、はっきりと。だから、これからは、息子とヨメさんの見てないところで、「フク」に意地悪をしてやろうと思ってるの、だ。ざまーみろい。




2002年 1月20日(日)午前 8時25分

 トルコにいたときボドルムから、ギリシャ領のコス島に渡ったが、そのときに買ったCDを聴きながら、これを書いている。なんか、コス島での滞在が、聴いていると蘇ってくる。夏は毎日、それもノーマルなフェリーだけではなく、高速船も出ているという。冬は、週に3便。宣伝の看板などを見ていると、高速船だと、僅か20分で着くという。そう言えば、コス島からの帰途、このくらいの時間なら、いつまでコス島が見えているか、ずっと見ていたら、最後の港に入る直前まで見えていた。それも、アングルの問題で、コス島方向に、島影を遮る物が入り込むためであり、それさえなければ、パスポート・コントロール前の船着き場からさえ、見通せる距離である。
 我々の頭の中というか、少しはトルコにかんだ者なら、トルコ・ギリシャ関係というのは、随分と興味をそそられる問題である。正直言って、恥ずかしい話だが、トルコに係わるまで、トルコ共和国成立時に、トルコ国内在住のギリシャ人と、ギリシャ国内のトルコ人の、いわゆる「住民交換」のことは知らなかった。まず、そんなことを思いつくこと自体、黄紺の想像を超えるものだし、また、それを実際に行ったというのだから、呆気にとられるしかなかった。それが、トルコ語教室で、初めて、この話を聞かされたときに感じた感想だ。もちろんキプロスのことは、トルコに係わる前から、そこそこの知識を持ち合わせていた。だって、70年代のキプロス紛争ばかりか、60年代の独立時のことも、TVの報道で、黄紺の記憶には留まっていた。だから、こちらでの、ギリシャ系住民とトルコ系住民の対立というのは、黄紺には、しっくりきたが、本家本元同士の根本が、今から考えると、全く分かっていなかったということだ。
 マルマラ海にあるブユック・アダに行ってみたくなり、無礼者氏と一緒にトルコに行ったとき、2人して行った。トルコ風じゃない光景に出会え、TVや写真で見るギリシャ風のそれに、興味がそそられた。でも、その後、エーゲ海沿いを歩いていて、例えば、イズミールのカルシュヤカにある、モニュメントや、アイワルックで見かけたギリシャ教会の残滓などに出会うことにより、トルコ・ギリシャ関係にリアリティが、着いてきたような気がする。遅いのかもしれないが。だから、1度、前々から、トルコ沿岸部にへばりつくようにあるギリシャ領の島々に行ってみたかった。最近、トルコに行けば、東の方ばかり目指している黄紺にとって、なかなかチャンスがなかったが、この冬は、1度はと思っていたマルマリス、ボドルム。ずっと1度はと思うのなら、気に入ろうが気に入らなかろうが、行こうと思い、更に、ボドルムに行くのなら、パパンドリュー外相とジェム外相が、2人して越えたコス島とボドルム間を越えようとしたのだった。
 今聴いているCDを買ったときのこと、これは忘れられない思い出だ。明日から、ユーロになるというギリシャで、最後のドラクマが手に入らない。平日なのに、両替屋は休んでいるは、銀行は開いていても、両替お断りだわで、ほとほと困った。もう食べることは、諦めた。黄紺は、普段から2食生活なので、逆に昼食べると、お腹の調子を壊すぞと自分を納得させたが、どうしても諦められなかったのが、ギリシャ・ポップスのCD。これも楽しみにしてきたのにと思うと、我慢できなくなって、CD屋に飛び込んだのでした。そして、ドルで買い物させてもらったのでした。いい主人でした。最後に、「新年の思い出に」とまで言ってくれた。そして、申し訳なさそうに「お釣りは、ドラクマで、いいかい?」と言い、黄紺にドラクマを渡してくれたのでした。これが、黄紺の最初にして最後に手にしたドラクマです。それで、パンを買い、またこのパンが、バターと卵がたっぷり入った、とってもとっても、も一つとっても美味しいパンでした。トルコのパンとは、全く違う美味しさに、しびれました。そして、そのとき1枚だけお釣りのドラクマ硬貨をもらいました。その硬貨が、今、黄紺の手にあります。もう使えないドラクマ硬貨、そして決して使いたくない、黄紺のとっておきのドラクマ硬貨です。




2002年 1月15日(火)午前 0時27分

 3連休が終わろうとしている。黄紺が、連休に入る前に考えていたことは、とにかく体を休めること、次に、HPの更新が思い通りにいってないので、少なくとも計画の1つは、実行に移す。そのくらいである。家でごろごろしていて、時間を持て余してはと、推理小説を1冊買っておいたが、とてもじゃないが読む時間などなかった。じゃー何をしていたのか? 1番の計算違いというか、誤算だったのは、ここまで寝るとは思わなかったことだ。日曜日などは、昼夜合わせて、15時間くらい寝たのではなかろうか? トルコから帰ってきてから、余り寝られなかったので、もう寝ないんだと思っていたら、ほんとに寝た。これ以上ないというほど寝た。これは、3連休の最大の目的は、クリアしたことを意味している。だから、必然的に自分の時間がなくなった。これは、嬉しい誤算だ。連休前までは、これだけ寝るということはないと、計画を立てていたことになる。寝るのが、最大の目標でありながら、することもたっぷり計画している、これは、滑稽としか言いようがない。でも、この嬉しい誤算が生じたのは、アルコールのおかげ。これだけ、速効性があるなら、これからも、こうあって欲しいものだが、なかなか思い通りに、これがならないから腹も立つというものだ。
 だから、結局、HPの更新は、サッカーの記録の滞っていた部分の修正と「クサントス写真館」を、アップしただけであった。「クサントス写真館」などは、暮れから用意をしておきながら、時間がなく放り出していたものだ。「ウシクダル写真館」も、少しは手をつけているのに、滞ったままである。まあ、あれもこれもとやらなければ、もっと早くできるものなんだけど、なんせ移り気と根気の無さが、このようなことになってしまったのである。その内、「ウシクダル写真館」を残したまま、「ムーラ写真館」の計画に入るかもしれない。ムーラは、若干の躊躇いもあるが、近くにマルマリス、ボドルムもあるので、隠しておいても仕方なかろうと思い、写真館を公開するつもりをしている。黄紺などは、マルマリスなどは、ムーラに滞在しながら足を延ばすところとすら考えているほどである。
 また、「なんでもトルコ」に「イスタンブールの大雪」を書こうとしているのだが、このようなわけで書いてない。早く書かないと、記憶が薄れていくのが心配なのだが、仕事の合間にでも、メモを取っておこうかしらんと、今は考えている。とにかくこの3連休は、黄紺は休眠状態だったのだから。でも、寝過ぎて、この時間になっても、全然寝る気がしてきてないんだよね。これって、まずいよ、逆に。新たな睡眠不足の始まりだ、よ。




2002年 1月12日(土)午後 7時47分

 トルコから帰ってきて、そのまま職場に行き、そして1日働き、家に帰ってきても、特段眠りこけるわけでもなく、そのまま働き続けてしまった。最初は、2日程でばててしまうだろう、どうせ最後は人間、眠ってしまうだろうと思っていたが、そうはならない。トルコから帰ってきたときにあることだが、元気なのである。トルコにいると、このときとばかりに、街中を歩き回る。それを、2週間ほど続けると、無駄な肉は落ちるは、足腰はしっかりするはで、元気なのである。目だけしょぼしょぼ状態が続いていただけである。
 考えてみれば、先週の土曜日の午後1時50分(トルコ時間)にイスタンブールを飛び立ち、それから約4時間でドバイ。飛行機ががらがらだったので、横にでもなればいいのに、ずっと「ドクター・マリオ」をし続けて、気がついたら、殆どドバイで、寝そびれてしまった。それから7時間、また「ドクター・マリオ」をしてしまった。どうしてもレヴェル18でとまってしまい、意固地になりちょっと興奮気味。もう寝ないと、シンガポールに着くと寝られないので、寝ようとすると、寝られない。意固地になり過ぎたのだ。気がつくと、もうシートベルトのサインがついている。シンガポールの着陸が、午前7時10分(シンガポール時間)。着陸寸前に寝たらしく、目が覚めたら、もう人が通路に立っていたが、寝続けるわけにはいかないので、暑い1日が、ここから始まった。日中30度のなかを、半日歩き続け、少し早めに、と言っても、出発3時間弱前に空港に戻り、仮眠。リラックス・シートに寝ると、往きの場合のように、寝過ごしかけるとやばいので、普通のいすで仮眠。すると日本語の呼び込み放送が入り、大慌て。午後8時にバンコク向けに飛び立ち、1時間45分のフライト。その間、しっかりと食事が出るから、寝てられない。更に、バンコクから大阪までの5時間半ほどのフライトの間にも、しっかりと食事が出るから、結局寝たのは2時間だった。イスタンブールを出る前の夜は、例の大雪で、4時間程しか寝てないから、3日間で途中のうたた寝を入れても、8時間も寝てない勘定である。にもかかわらず、ほぼ普段と同じような生活を送り、今日まできたのであった。
 だから、このままだったら、やばいんじゃないかという気持ちが、働きながら持ち続けてきたわけなのだが、不思議と昨晩も眠りこけたわけではなかった。トルコにいる間、それこそ眠り続けた。夏にトルコから帰ってきてからの疲れを、一挙に解消するが如く、トルコでは寝た。せっかくのトルコで、もっとTV最新状況をウオッチしなければと思うのだが、またフェネルバフチェのデニズリ前監督が解任されるというショッキングなニュースが、行くなり飛び込んできたので、それをTVで追いかけたいのだが、来る日も来る日も寝続けた。だから、そこで寝だめをし過ぎたんだと、今は思っている。でも早いものである。もうあの大雪から1週間である。1週間前、イスタンブールの最後の夜、その後の普通通りの1週間なんか想像だにしなかったのに、その普通通りの1週間が過ぎてしまった。今、また、猛烈にトルコに行きたくなっている。大雪で奪われた、最後の1日が、なんとしても無念だからである。あーあ、もう1度行きたい。ゆっくりと、カドゥキョイ・ライフを過ごしたい、のだ。




2001年12月20日(木)午前 5時00分

 トルコが、猛烈に寒いらしい。明日から、また大寒波襲来で、更に冷え込むようだ。23日に、うまく日程が合えば、イスタンブール(コジェリ、ブルサあたりも視野に入れている)で、サッカーの試合を見れないかなどと考えている黄紺にとっては、とっても気になるところ。試合がないかもしれない、雪で。日程の中には入ってるのだけど、雪で、試合ができないのではないか、それが心配なのだ。丁度この前の日曜日、アリ・サミ・エンで、2日間に渡って、試合ができなかったように。でも、あっても、スタンドは寒いだろうなぁ。イスタンブールのアリ・サミ・エンにしろ、シュクル・サラチオールにしろ、特にイノニュは、海に近いから、とってもとっても風なんかが吹いてなんて、寒いことばかり考えてしまう。
 そう、寒いと言えば、忘れられない思い出がある。1度だけであるが、今から6〜7年前、11月の後の連休を使って、8日間だけトルコに行ったことがある。アンタルヤ、アランヤを回ってるあたりは良かった。ただアランヤの夜が、雷鳴轟く、えらい荒れた天気だったくらいで、だからと言って、気温にさしたる変化はなかったのだ。ところがである、イスタンブールに着いて、真っ青。まず、雪がちらついている。気温に至っては、真冬の1番寒いかと思うほどの気温。手持ちの服装は、まだ晩秋のそれ。これは、こたえた。それこそ、カドゥキョイの海岸通の寒さといったらなかった。ほんと、体中が縮上がる思いだった。丁度このとき、同時期に、アイシェ・ハヌムとT森が、イスタンブールにいたので、シルケジ駅で待ち合わせをした。そのときのアイシェ・ハヌムの格好を、今でも覚えている。完全にトルコに同化した姿、話題のブルカじゃないが、カパルのお姿で現れたのでした。T森は、顔の表面が厚いのか、そこまではしてなかったが、肩をいからせて、いや寒いから、自然とそうなるのか、肩を上げ、体を少しでも丸めようとしながら現れた。あのとき、おまえさん方は、10分遅れたんだぞ。そのときの寒さも、忘れないよ〜。最初の予定では、マルマラ海沿いの、どこやらのレストランでも行こうなんて約束してたんだけど、「それ、めっちゃ、寒いん、ちゃう?」ってことで、あっさり、ボツになったっけ。それほど、寒かった。ガラタ橋を渡って、イスティクラルに上がるのすら憚った程の寒さ。結局、アクサライのロカンタで、食事をしました。黄紺は、あれ以来、アクサライで、食事なんぞ、してないぞ。でも、あのロカンタ、良かったよね。ときどき、行ってみようかと思うことあるんだけど、カドゥキョイのお気に入りのロカンタに通いだしてから、行くに行けないんすよ。そのロカンタは、タワ系の料理出してくれるんです。ということは、黄紺は、勝手に、東南部出身者が、地元の料理出してくれてると思ってます。そして、ここのハシュラマが、うまい。もう、最高! だから、カドゥキョイから離れられないんです。アイシェ・ハヌムとT森と一緒に行ったカドゥキョイのロカンタも、良かった。あすこは、おいしいけど、ちょっとばかし、お値段が高めだから、どうしても避けてしまう。あすこのチャルシュは、カドゥキョイにいれば、毎日前を通るんだけどね。そして、最後の最後に、あのロカンタの前にある酒屋で、酒を買って帰る、これが定番化してるんだけど、ね。あすこの親父、もうぼちぼち、黄紺のこと覚えてくれても、いいんだけど、いつも無愛想。それが、おもろいから、また、あの店、行っちゃう。
 でも、寒いだろうなぁ。でもでも、あすこあたり行くと、帰ってきた気がする。ずっといたい気がする。モダ方向の工事、終わってるだろうか。職場のPCに、その辺りから見た夕陽の写真を壁紙に使ってます。右下のこの辺に、スルタン・アフメット・ジャーミーとアヤ・ソフィアの影が映ってるんだぞ。あと3日、黄紺は、その光景のなかに、立ってるはずなんです。




2001年12月16日(日)午後10時56分

 この頃、猛烈に忙しい。前も書いた記憶があるが、1年間の内で何回か、この期日までに仕上げねばならないんだけど、果たして絶対的な時間が足りるだろうかと思うときがあるが、今は、正にそのときである。とにかく時間を、精緻に振り分けねば、大変なことになる。こうなった原因の1つは、先週、出張が2つも入ったことだ。職場を出てしまうと、もう帰って来れないところまで行ってしまうので、職場 でしかできない仕事は、もうその日はできない。それが2つも来てしまった。その内の1つなんて、黄紺の行ったという証拠だけ残せばいいような出張だったので、頭に来ていた。また、家まで持って帰ろうとまでは思わないんだけど、たとえ思ったとしても、恐くって、変なリスク負うよりか、持って帰らない方がましな代物なのである。だから、結局、時間に追われるというわけであった。最後のつまりは、忘年会まで入ってしまった。土曜日の猛烈なサービス残業も、そのため途中で切り上げねばならないと、なんとも困った時間の設定であった。だから、結局、今日、家で仕事してしまったのです。PCがあればできたので、ここまでと思って、昨日頑張った結果、家でできたし、だからしてしまった。
 忘年会は、京都の料理旅館であった。京都人なのに、普段足を踏み入れたことのない場所、周りは同じような店がつらなる。なかなかの雰囲気。なんか、時間に追われていたことなど、もうこの雰囲気に浸ってしまうと、そんなことどうでもいいやと思ってしまうほど、いい感じの、京都らしいところであったぞ。実は、忘年会へ行く前から、K氏が、2次会の手配をしていた。黄紺にとっては、久し振りのカラオケ。もう古い古いものしか歌えない。子どもの持ち歌を歌えるわけでもなく、ただひたすら、過ぎ去りし日々を追いかけていました。
 こんな日々を過ごしながら、はっと気がつくと、もうトルコへ出かける日が、間近に迫ってきている。職場では、日本に出稼ぎに来ているみたいと言っています。そういう言い方を聞くと、皆さん、「そうね」との反応。ホント休暇をいっぱいいっぱい使って帰ってきます。でも、まだ、どこへ行こうか決めてないんです。一応、何にもなしではなくって、2つのルートを考えています。1つは、長らくご無沙汰のエーゲ海沿岸から地中海沿岸にかけてのルート。マルマリスやボドルムに行ってみようというものです。黄紺は、ムーラに行っておきながら、その2つは行ってない。もう1つは、これまた未経験の冬の南東部体験コースである。夏しか行ってないもので、厳寒の南東部体験をしてみたいと思っているのである。無理して両方とも行けないかなぁ、なんて都合のいいことも、最近は、考え出している。ムーラ発アダナ行きなんてバスが、きっとあるはずだと、それに賭けてみようなんて、呑気なことも考えてる黄紺でありまする。先程、トルコのラジオを聴いていると、ラマザン明けで、祝祭気分のDJが流れていた。あぁ、今回は、ラマザンにぶつからないから、心配事は減るなぁと思いつつ、なんかラマザンが懐かしい気持ちが、たっぷりです。さあ、お正月は、どこで迎えるのかな? 大晦日は、TV点けっぱなしで、思いっきり夜更かしするぞ。このときとばかり、トルコの歌手の見だめ、聴きだめをするんだ。それが、この時期に行く最大の楽しみなのさ。オペラも観るぞ。これが、この時期の2つ目の楽しみなのさ。なんか、もうすっかり、気分はトルコだぞ。来週の今頃は、少なくとも、イスタンブールだ。それまで、頑張って、働こっと。







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