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【トルコ編】[21]マルマラ大地震

 1999年8月17日午前3時2分(1ルコ時間)、未曾有の都市直下型大地震が、トルコを襲った。 トルコのテレビによると、コジェリ(イズミッ1)の東方5qを震源地とするという。僕は、丁 度その時、トルコの東南部の都市シュンルウルファにいた。震源地まで、バスで行けば 丸1日かかる程離れた所にいたので、もちろん揺れは感じてないし、朝起きて初めて事 実を知った次第である。ところが考えてもみて下さい。いくら慣れているトルコとはい え、異国の地で、あれほどの大地震の映像を、テレビで見せつけられると、僕の驚きは 尋常なものではなかった。そして、被災者のことになど思いを馳せる余裕などはない。 自分自身のことしか考えてはいない。というのも、コジェリは、イスタンブールと隣接 したところにある都市、東京に対する川崎ないしは横浜の位置にある、心臓部の都市な のである。僕は、シャンルウルファからディヤルバクルヘ行く予定で、既に8月20日の ディヤルバクルからイスタンブールに飛ぶ飛行機のティケットを持っており、更に、そ の翌21日の夜、イスタンブールをたち、日本に帰る予定をしていたのである。ところが テレビから流れてくる映像は、イスタンブールの中心部タキシム広場界隈に、地震で家 を飛び出した人が、夜間道端にたたずむ姿を写しているし、イスタンブールのアジア側 の拠点、ウシュクダルやカドゥキョイで、それぞれ1人ずつの死者が出たと報じている ではないか。そして、僕を何よりも驚かしたのは、イスタンブールのアヴジュラールと いう地区の被害が、それこそコジェリやサカルヤ(アダパトル〉と同じ規模の被害を出してい る様子を、テレビが刻々と伝えていたことである。コジェリが震源地であるからその隣 のイスタンブールで被害が出ることは当然だとしても、広いイスタンブールの一体どこ に、そのアヴジュラールがあるのか分からない、イスタンブールの他の地域も、どの程 度の被害を受けているのか分からない。なかでも1番知りたいのは、イスタンブールの 空港が大丈夫だったかということである。でないと、僕は、ディヤルバクルからイスタ ンブールヘ戻ることはできないし、ましてや日本には帰れないのである。
 こうなると、街をぷらついてはホテルに戻り、頻繁にテレビを見るしか仕方がない。 トルコのテレビは、概して被害の大きな所ばかりを映し続けていたので、それ以外で、 それ程までではないが、被害を受けている所の様子を知りたくとも、情報を流してはく れない。だから何かの関連で、イスタンブールのことが触れられたとき、こちらの関心 と結び付けて聞いたり見たりしなければならなかった。神戸の経験で、地震発生後半日 程経過しないと、被害の全貌を把握できないと思っていたので、17日の午前中は、ジャ ンルウルファでタクシーをチャーターしてハランに行き、戻ってテレビをつけると、エ ジェビット首相が、被災地を視察するために、もちろん首都のアンカラから空路イスタ ンブールに入り、コジェリを訪れたというニュースを流していた。これが、僕にとって の最初の朗報である。空港は機能している。とにかくイスタンブールヘは行ける。それ までぼやっと考えていたアンカラからの出国はしなくてよい。ひとまず胸を撫でおろす。 だが、イスタンブールに戻ったとして、空港は、イスタンブールのヨーロッパ側の、更 に西方に位置しているので、大丈夫だったとしても、1日泊まる予定をしていたので、 ホテルを確保できるのかが心配になってきた。まして自分がいつも泊まっているアジア 側は、コジェリに近づいていくので、無理なんではないか、という不安である。しかし その時思ったのは、タキシムですら、あれだけの人が、自分の家には戻ってないのだか ら、アジア側が無理だとしても、またヨーロッパ側の海よりの地域が駄目でも、もっと 西に1ヶ所目を付けているホテルがあるから、そこに泊まろう。そこも駄目なら、空港 は機能しているのだから、空港でごろ寝をしたとしても、1晩のことだから我慢できる から、ま、なんとかなるさと少々開き直り気味であった。その一方で、イスタンブール のことが気になる。そこで思いついたのは、日本から情報を収集することである。日本 でトルコを知っているとすると、それはイスタンブールしかないだろうから、日本の報 通機関は、きっとイスタンブールの近くのコジェリで起こった地震ということで、イス タンプールのことを何かの形で伝えているはずだと考えたのである。実は、この発想が 正解だったことは、帰国してから初めて知るのだが、まずトルコから日本への電話がつ ながらない。いやPTTで、トルコ国内にかけているトルコ人の電話もつながっていな い。あ一あ、神戸のときと同じだ。結局、電話は、翌18日午後2時頃(トルコ時間)に日本につ ながったが、イスタンブールの風景をよく知っている息子に聞いても、分からないとい う返事だった。実は、このとき息子は、とても大事な情報を持ちながら、そのとき僕に 伝えるのを忘れているのである。その情報とは…? 後ほど。
 19日の午後になって、テレビを見ていると、被害の大きかった所として頻繁に報道さ れていたヤロヴァから怪我人が、船でハイダルパシャに運ばれているというニュースが 流れた。マルマラ海に面してあるヤロヴァからは、日に何回も普通なら、イスタンブー ルのカバタシュやボスタンジュへ高速船が運行している。ドルマバフチェ宮殿のすぐ近 くにあるカバタシュの船着き場まで、1時間で行けるところにある。これは人に聞いた 話であるが、地震当日の昼頃から、この搬送は始まっており、ハイダルパシャに隣接し たカドゥキョイの海岸通りは、救急車がひっきりなしに走っていたということである。 しかし、そんなことは帰るときに知ったことであり、このことをテレビで初めて見たと きは、正直言ってほっとしたし、またアジア側へたとえそこでは泊まれなくても、行 ってみようという勇気が湧いてきたのが、このときだった。次に決定的な情報を得たの が、19日の夕刻だったような記憶がある。コジェリやサカルヤから、要するに被害がと りわけ甚大だった地域の人たちの中で、車の被害を免れた人たちが、親戚や友人を頼り に、イスタンブールヘイスタンブールヘと流れ、通行可能なその方向への道路が、大渋 滞を起こしているというものだった。これでイスタンブールの中心部は、住めるという 感触をはっきり掴めたのである。
 20日丁度お昼どき、イスタンブールのガラタ橋前のエミノニュの船着き場に再び立っ た。そこは、普段と全く変わりない風景だった。アジア側のカドゥキョイに船で渡る。 カドゥキョイが近づいてきたとき、あれほど目を凝らしてカドゥキョイを見たのは、こ こをカルケドンと知って訪ねた初めてのとき以来であった。いつもと違う、どこが違う のだろう。その違いに気付くのに若千時間を要した。いくつかの街区の角あたりが、ビ ニール・シートで被われているのである。遠目から見ると、それがよく分からないので 気付くのに若干の間が空いたのであった。7月の末にも泊まったホテルに入ると、僕を 覚えてくれていたこともあり、自然と地震の話になる。自分らのホテルは、ビルとビル に挟まれていたから、被害は出なかったとのこと。ということは、ビルとピルの間にな いビルは、揺れをお互いに吸収できず、崩れ落ちる。それがビニール・シートとなって いたというわけであろう。その後、イスタンブールのいろいろな所を歩いてみたが、中 心街では、目立った被害というものにはお目にかからなかったというのが、正しいだろ う。もちろん僕が行った所だけだが。心配していたタキシムもいつもとは変わらなかっ た。しかし、このあたりになると、地震の実態、被害の大きさというものが正確に把握 できており、一方でいたたまれない気持ちとなっていたのも事実であった。特にテレビ 画像で、ボルという都市の様子が映ったときは、本当にショックだった。僕は、この町に に、地震の約3週間前に泊まっていたのである。もしこの夏、1回目と2回目の行程が 道だったらと思うと、背筋の凍る思いであった。
 いよいよ21日を迎える。午後6時半過ぎにカドゥキョイをたち、エミノニュでトラム に乗ったのが7時前後だった。帰るときいつもするように、ここから30分トラムに乗る と、終点のゼイティンプルヌに着く。そこからタクシーをひらえば、ものの10分もすれ ば空港である。一番確実に帰れる方法だと思っているので、その日もそうした。車窓か らの風景は、地震の跡を感じさせないいつもの風景だった。それが、それが、、、終点 のゼイティンブルヌの一つ前の駅から一変したのである。テレビで、ここ数日見慣れていた テント村が、突如目の前に現れたのである。公園やちょっとした空き地という空き地に 簡易テントが並んでいるのである。我が目を疑う。確実に震源地からは遠ざかって行っ ているはずなのに、なぜ、こんな所にという思いである。ひょっとしたら、これは地震 と関係ないのではとすら考えた。唖然としている内に、トラムはゼイティンプルヌに着 く。そして、駅前に待っているタクシーに乗リ込む。乗り込んだ途端、僕は、直ちにこ の風景のわけを、運転手に問い正した。彼が言うには、この地域は大きな被害が出た所 で、自分も、家族と一緒にテント生活を送っており、あの地震の時間、仕事をしていて ハンドルがこんなふうになったと、運転しながら格好までしてくれた。更に、驚くべき ことを、彼は言い放った。イスタンブールで大きな被害が出た、あのアヴジュラールは 目の前に見える木の茂ったところだというのである。今走っている方向を、やがて右へ 曲がっていくと、空港である。それを逆方向に針路を取れば、なんとアヴジュラールヘ 行けるという方角である。これには、びっくりした。知らないこと程恐ろしいことはな いし、一方で知らないこと程安心なことはないのである。実は、このことを、息子は、 僕が電話をしたときに、言い忘れたのである。息子は、日本のテレビで、イスタンブー ル空港の近くに大被害が出ていることを知っていて、僕に、言い忘れたのであった。ここ でも知らないでいいように、巡り合わせがあったのである。
 さて空港に着くと、ちょっと様子が、いつもと違う。空港ビル内が、やけに暑いので ある。だからやたら喉が渇く。だから空港で、2度もジュースを買いに行った。2度目 に買いに行ったとき、ぼくがトルコ語が話せるのを知ってか、売店の店員が、こちらが 聞いてもいないのに、こんなことを言い出した。「今日は、随分と混でいるんだ。もう 2日も、ここで飛行機を待っている人たちがいるんだ」「えっ、なんで」「分からない んだ」「で、どこへ行く飛行機が飛んでないんだい」「フランスやドイツヘ行くやつな んだ」「どおりで、暑いと思ったよ」恐らくトルコ航空が間引きをして、地震関係の 搬送に振り分けてるのだろう。空港ビル内には、まだチェックインせずに、大きな荷物 を横に置いて、じっと待ち続ける人の数が、いつもと比べて遥かに多かったのである。 僕の利用した航空会社は、香港のそれである。だから、何のトラブルもなく、定刻通り 飛び立った。地震をかわして飛び立ち、ほっとしている者を、この後待ち受けている大 事件を、このときは、まだ知る由もなかったのである。





【トルコ編】[22]クルド人の町

 1999年は、トルコにおいて、長年PKKのリーダーとして知られ、ときとしてはテロリストという言い方で恐れられていたアブドゥラハ・オジャランが逮捕された年として記憶に留められる年であろう。そもそもクルド問題とは、1923年トルコ共和国の成立に際して執られた、西ヨーロッパの近代国民国家モデルに起因すると言ってよかろう。第1次世界大戦後の主要コンセプト・民族主義華やかなりし頃に、複合民族国家トルコにおいて、一つの国民「トルコ人」を創造していこうとしたところから、それに収飲されない民族性は、反国家的として排除され、弾圧されていくのである。欝屈した民族性なるものが、テロという形を探らざるをえないほどのものであると思う一方で、その頻度や規模の大きさからして、その手法に疑問も出てくるところてあるが、それにもましてそれを制圧することを目的とするトルコ軍の執拗な掃討作戦は、決して支持できるものではない。そのようなわけで、軍事行動が執られている主要地域であるトルコ南東部へ足を踏み込むことは、十分な情報収集とその分析をしておかないと、向こう見ずの誹りを招くというものである。もとより航空機を使って当該都市にダイレクトに入ることは、何ら問題はない。問題は、トルコの足であるバスやドルムシュに乗ってする都市間の移動である。日本の外務省から出されている「注意勧告」などは、広範囲に過ぎ、大いに正確さに欠ける。結局地道に新聞を毎日読み、関係地域の記事から情報を集めることである。  4年前に、東南部の旅の果ては、ユーフラテス河畔の町・ビレジックであった。3年前と昨年(1998年)は、アルメニア国境の町・カルスであった。昨年の息子と一緒に行ったカルスヘの旅は、3年前と異なり、エルジンジャンとエルズルム経由で行っている。3年前はこのコースを避け、黒海沿岸経由でカルスに入った。これなどは、情報収集の結果である。まして息子とともに行くくらいだから、万全を期したつもりだった。今夏も、東南部へ行った。前回この地域に来たときに避けたカフラマンマラシュとジャンルウルファ、そしてディヤルバクルに行きたかったからである。すべてクルド人の町である。カフラマンマラシュから、ガジアンテップを経て、今回はピレジックを素通りしてシャンルウルファに入る。マルマラ大地震の前日のことである。この町の市場を、チャルシュと土地の人は呼んでいるが、その言葉ではなく、アラビア語のスークという言葉で呼んだ方が似合っている。狭い路地、それぞれの店は、その道にせり出すような形で物が積ま れている。何よりも僕を驚かすのは、ここで語られている言葉が、トルコ語ではない。翌日、ハランに行くためにチャターしたタクシーの運転手に、その話をすると、ほとんどクルド語だという。僕がアラビア語じゃ一ないのと聞くと、少しはアラビア語があるかもしれないけれど、ほとんどはクルド語だという。ちなみに自分もクルド人だと言っていた。この辺で会ったクルド人は、当り前のことを当り前に言うように、自分はクルド人だと言う。それをトルコ語で、僕に。こんなこともあった。ディヤルバクルの誇りウルジャーミーの中庭で、長椅子に腰掛けて座ると、一方の端には1人の老人が座っている。自然な流れとして口を利く。トルコを歩いていてよくあることだか、夏の暑い盛りに、きっちりとした装いで、上着をその老人も着ていたので、「こんなに暑いのに、どうしてこんな服、着てるの」なんて言って喋っていたのを覚えているが、そこへもう1人の若い見知らぬ男がやってきて、我々の世間話に加わってきた。ところが、僕と話すときは、ちゃんとトルコ語で話すんだけど、老人と後からきた若者の語す言葉は、そうではない。そこで、「今、あんたらが話した言葉は、何だい」と、これは、もちろんトルコ語で聞く。そしたら、彼らは、トルコ語で「クルド語さ」と答えてくれた。完全にバイリンガルな世界が、ここにはある。ネイティヴの言葉としては、クルド語何だろう。そして、学校でトルコ語を叩き込まれる。で、トルコ語を覚える、ということだろう。また、こんなことも、ドウベヤジィトであった。翌日、ワンに行くためのドルムシュを調べていたとき、とある小さなバス会社に行き当った。どうゆら、このオフィス前から、ワン行きが出るらしいので、出る時間を聞く。1本目、2本目の時刻は聞き取れたが、3本目のドルムシュの時刻が聞き取れない。「えっ? えっ?」と問い返す僕。が、相手は、同じことを繰り返す。また「えっ?」と言う。その辺で、横にいた男が気が付いて、僕に言ってくれる。と途端に3本目の出発時刻が分かる。この仕掛け、分かりますかな? 要するに、先の男、2本目までは、トルコ語で発車時刻を言っていたにもかかわらず、3本目は、クルド語で言ってて、自分自身、それに気が付かず、僕が、「えっ?」と言っても気付かずだったのである。今、トルコは、ABの加盟に向けて、クルド語放送クルド語教育に着手するかもしれないところまで来ている。もちろん、MHPのような民族主義者の反発も想定されている。が、一方で、自然な結果として、自分たちの文化、言語をしなやかに受け継ぎ、生身の生活を営んでいる人々がいる。ある意味では、共和国建国以来の結果が、これであるという事実を謙虚に受け入れるところから、トルコ政府は出発しなければ、何事も始まらないのではないだろうか。(クルド人の町・ビトリス写真館へジャンプ)

【注】この文は、1999年に認めたものである。南東部の情勢は、年々歳々変わっているので、これは、あくまでも1999年の黄紺の感想であるという前提でお読みいただければと思っている。そういう意味では、毎年のように、南東部へ行っているものとして、その都度、このような駄文を書き続ける責任感のようなものを感じている。[21]へ戻る







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